きょうはこんな日でした【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画:ムラサメ モンガラ |
2001.9.11(火)
この日記は9月20(木)に書いています。米国の同時多発テロについてはだいぶ時間が経っていますので、当日の衝撃に比べれば冷静になっています。しかし、その当日も今も気持ちは変わっていません。テロには怒りを覚えますが、報復攻撃でコトは済むのだろうか。力では決して抑えつけられないということは、過去の歴史が示していることです。しかもビンラヴィン氏には嫌疑があるというだけで、何ひとつ証拠を示してはいません。国際社会の理解を得るには証拠を示すことが第一だと思います。
テロの犠牲になった方には哀悼の意を持っています。決して許されないことです。しかし、報復攻撃という手段は次元の違う話だと思います。ヤクザの出入りと同じことをやろうとしていのではないでしょうか。できるできないの問題はありますが、まずやらなければいけないのは犯人の逮捕と国際裁判でしょう。法で人を治めるのが近代社会であったはずです。それが民主主義だと我々は他ならぬ米国に教わってきたのではなかったでしょうか。
ブッシュ大統領は当事者ですから、強硬に出るのは百歩譲って理解しますが、わが国の小泉首相の態度はいったい何なのだろうと思ってしまいます。憲法違反になる自衛隊の派遣まで含めた支援は、本当にわが国のあるべき行動なのでしょうか。それは違うと思います。世界で唯一、原子爆弾の被害を受けた国だからこそ、暴力に訴える米国を諌める立場にあるのではないでしょうか。その小泉首相を、国民の8割、9割が指示していることを考えてしまいます。
クリスチャンは「汝の敵を愛せ」と言いながら殺し合い、わが国の大人は自分で決めたルールを、自分の都合の良いように拡大解釈しています。同じ大人として、私は少年たちに何も言える立場にないことを痛感しています。
○川村慶子氏著『わが詩 わが愛』 |
2001.6.1 青森県弘前市 緑の笛豆本の会刊 非売品 |
まさに豆本です。大きさは7.5×9.5cmほど、上の写真のほぼ2倍の大きさです。既刊詩集の中から10編ほどを選び出し、作品のまつわる話などを、全40頁余に収めてあります。
かものはし
このほれ易さは わたしの欠点だろうか
タスマニアの かものはしに ほれたのは
大鷲に狙われて
一生けん命に 逃亡する 珍妙なけもの
房々とした長い尾 ずんぐりした四つ足
腹部で草をなぎ倒しながら 脇見もせず
水辺を求めて のめくって走る
大鷲は狙った獲物をはずすだろうか
走れ 走れ かものはし
やっと水辺に辿りついて ぽちゃーんと
みごとな投身術で 一命を拾った
その後で一生けん命というものはいつでも
少うし滑稽なものである と思った
大鷲はもう少し空腹を抱えて翔ぶだろう
体長五十センチほどの珍妙なけもの
卵生の哺乳類は かものはしの他に一種だけという
走るどころか歩くのみで疲れ
泳ぐどころか入浴さえ制限されている
心臓疾患が見つかって 多病息災の上に
更に二病が加わったからだが
かものはしよ
私も一生けん命に生きて来たが
それというのは いつもどこか野暮ったく
人からみれば相当に 滑稽なものなんだろうね
(「未刊詩集」より)
滑稽を自分の身に置いての作品ですが、考えれば難しいことですね。確かに本人の一所懸命さは他人から見れば滑稽かもしれません。しかし、それでも私は一所懸命な人の方が好きです。余裕を持ってソツなくこなす人は大勢いますけど、その人の半分しか出来なくても一所懸命な人の方が好ましく思います。成果と途中経過とどちらが重要かということが、時々話題になります。時と場合によって一概には言えませんが、できれば途中経過を大事にしたい。その経過の積み重ねが成果なんでしょうね。「のめくって走る」からこそ「一命を拾」うことができたわけです。作者はもちろんそんなことはちゃんとご存知で、だからこそ「タスマニアの かものはしに ほれた」わけなんですね。
○季刊文芸同人誌『青娥』100号 |
2001.8.25
大分県大分市 河野俊一氏発行 500円 |
日向雨/林
舜
日向雨をみるたび
梅雨明けに母は
「狐の嫁入り」を
よく口にした
わたしは母の死後も
そんな日は何となく薄気味悪かった
正体のわからない狐がいて
いったい何処へ嫁ぐのか
帰れないところへいってしまうのか
それとも置きざりにした
わたしのような子を忘れて
嫁(い)ってしまうのか
どうも解せぬことが重なる
ときには
物の怪のような不吉な雲が
後からついてきて
土砂降りになる
そんな夜
軒下に子猫が泣き
隣の家の赤ん坊の夜泣きがやまず
すべて止んだあとの
夜明けの雨だれは
日向雨のことなど知らぬ
と子狐の跳ね飛ぶ音だ
「日向雨」とは関東地方で言うところの天気雨ですね。「狐の嫁入り」という言い方は共通しています。注目すべきなのは、それを「そんな日は何となく薄気味悪かった」と感じている点です。私は、明るい雨で気持ちがいいなと感じる方ですので、逆の感じ方があるのに、まず驚きました。しかし、注意して読むと母上が「よく口にした」からだと判ります。その母上は「置きざりにした/わたしのような子を忘れて/嫁ってしま」ました。だから「母の死後も/そんな日は何となく薄気味悪」く感じるんですね。
しかし「夜明けの雨だれは/日向雨のことなど知らぬ/と子狐の跳ね飛ぶ音」に聞こえます。これは「薄気味悪」く感じる延長なのか、その逆に明るく聞こえるのか解釈が分かれそうですが、やはり前者でしょう。その方がトーンが統一されます。それにしても、かなりシビアなことを書いている作品だと思いました。作者の詩を書かざるを得ない理由の一端を理解した気になっています。
○詩と評論・隔月刊誌『漉林』103号 |
2001.10.1
東京都足立区 漉林書房・田川紀久雄氏発行 800円+税 |
あいすることもあいされることも/坂井のぶこ
あめでした
ざんぎょうでおそくなって
くらいみちをかえってくると
ちづるちゃんのへやにあかりがついていました
ぷらたなすのはがてらされて
みどりにすきとおってみえました
ぎんのしずくがひかっていました
わたしはたちどまってしばらく
とおいあかりをみていました
こころのなかに「ふゆのうた」のめろでぃが
うかんできました
あのわかものはあきらめなかったから
あいすることも
あいされることも
けしてあきらめようとしなかったから
ひとりでさまよわなくてはならなかったのです
ゆうやみのなかで
あめもがいろじゅもぬれたほどうも
ちづるちゃんのへやのあかりも
とおりすぎるくるまのへっとらいとも
どうしてこんなにうつくしいのか
それはわたしがひとりだからです
かなしくてかなしくて
ひらいたままになってしまった
ひとみのなかに
すべてのけしきがいちどに
はいりこんでくるからです
この『漉林』は詩の朗読を大事にする詩誌で、この作品の作者も「詩語り」の実践者のようです。残念ながら、私はまだ実際には拝聴したことはありません。この作品は、そんな先入観なしで拝見していました。そして、あっ、これ、朗読にいいな、と思って、『漉林』をよくよく読んでみると以上のような事実が判った次第です。もちろん『漉林』はかなり前から拝見していて、そんなことはとっくに判っていたはずなのに、忘れていたんですね。この作品に刺激されて、改めて認識したわけです。
例えば「かなしくてかなしくて」というフレーズは、普通は使いません。しかし、この作品では必要なんです。なぜ必要か考えているうちに、朗読には必要だ、と行きつきました。そう思って声に出して読んでみると、何の違和感もありませんでした。そして声に出して初めて「あいすることも/あいされることも/けしてあきらめようとしなかったから/ひとりでさまよわなくてはならなかったのです」というフレーズと「ひらいたままになってしまった/ひとみのなかに/すべてのけしきがいちどに/はいりこんでくるからです」というフレーズが見事に調和していることも知りました。一度、声に出して読んでみると、この作品の言葉の力が判ると思います。
○詩誌『見せもの小屋』36号 |
2001.10.1
東京都足立区 漉林書房・田川紀久雄氏発行 500円+税 |
蝉/田川紀久雄
蝉の亡骸が路上に落ちています
すると雀が素早く飛んできてそれを食べてしまうのです
自然にはまったく無駄がないのです
夏の暑い日盛り中で
うるさいぐらい鳴き続けて
交尾の相手をみつけ
それで蝉の一生が終わるのです
この単純な営みの中に
現代の人間が失っている全てが隠されているのです
蝉は死を恐れたりはいたしません
この地上に現れるまで
地中で何年も過ごさねばならないのです
短い地上の生活ですが
燃えつき果てるように懸命になって
交尾の相手を求めて生き続けるのです
都心では蝉の鳴き声が年々少なくなってきています
繰り返される道路工事や
マンションの建設で
地面が堀りおこされ
蝉の幼虫たちが殺されているのです
森林も
公園も
取り壊され
子供たちの遊び場もない都会生活では
暴走族のけたたましい騒音だけが鳴り響いているのです
蝉の脱け殻をマンションの壁で時々見かけたりいたします
この地球を破壊し続けている人間に
負けまいと必死に生き抜こうとする蝉の姿に
ふと涙が零れ落ちてくることがあります
今日一日精一杯に生きようと思うのです
蝉の鳴き声が裏の庭の木から聞こえてきます (二○○一年八月四日)
このHPでは何度か書いていることですが、主宰者の作品はなるべく紹介しないようにしています。主宰者の作品というものはどこでも紹介されるものです。1編の作品を紹介するという基準でこのHPを運営していますから、他と同じことをやっても意味がない、それより他の同人の作品を紹介した方が志の高い主宰者なら喜んでくれるはずだ、というヨミもあります。
しかし、そんな禁も何度かは破るハメになっています。やはり主宰者という人たちは高いレベルを持っているものなのですね。今回も禁を破って主宰者の作品を紹介してしまいます。「蝉」の作品を書かれると、どうも弱い。「蝉は死を恐れたりはいたしません」というフレーズに参ってしまいました。土中に7年、脱皮して7日の命の蝉には、死という概念が無いのかもしれませんね。そこをうまく表現されてしまいました。人間はある年齢になると「交尾の相手を求めて生き続ける」ことは恥とされています。しかし、蝉にはそんな余裕は無いのです。「うるさいぐらい鳴き続け」なければ「一生が終わる」ことができないのです。それをいつか書きたいと思っていました。
そして「暴走族のけたたましい騒音だけが鳴り響いているのです」というフレーズにも、ヤラレタなという感じを持っています。現代の「蝉」を暗示させているフレーズです。こういうことを書きたかった! いつか、この作品を超えられるものが出来るかどうか心もとない気分ですが、精進してみます。
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