きょうはこんな日でしたごまめのはぎしり
murasame mongara
新井克彦画:ムラサメ モンガラ




2001.9.16(日)

 学校の運動会が行われました。普通なら「小学校の」とか「中学校の」と頭に付くんですが、この地域では「幼・小・中合同運動会」となります。生徒数が少なくて、小学校や中学校での単独開催ができず、今までは小中合同運動会でしたが、昨年からは幼稚園も加わって三者合同となっています。全国的にも珍しい運動会だろうと思います。

010916

 写真は「王様ジャンケン」の一齣。幼稚園生から大人まで参加する大ジャンケン大会です。写真の幼稚園児が強くて、二位まで行っちゃいました。天気も良くて、いい一日でした。



吉松美津子氏詩集『石女の海』
umazume no umi
2001.9.20 東京都東村山市 書肆青樹社刊 2300円+税

  うまずめ
 石女の海

老いた船が入り江の渚に座りこんでいる
年をあきるくらい重ねた女が
船に寄りそっている

砂にへたりこんだ船も
しわに包まれた女も
いっこうに動く気配がない

女の目の端を
男の子が走り過ぎたのははるかな昔
いま その目に映るのは孕む気配のない海

奪われ
汚染され
産めなくなった海

男の子はもう幻
波のきらめきも昔物語
海は石女
船は廃船
皺深い女は沈黙

 詩集のタイトルポエムで巻頭詩でもあります。著者は鹿児島県生れで鹿児島県在住。南国漁民の女性の視線が実に新鮮ですね。言語感覚も素晴らしいものがあります。「年をあきるくらい重ねた女が」というフレーズに思わず唸ってしまいました。そして、何も「産めなくなった海」。「皺深い女は沈黙」という最終行と見事に溶け合って、著者独自の世界を表出していると思います。
 そんな表面的なうまさもさることながら「石女の海」というとらえ方は、漁民にとっては深刻な問題なのだろうと思います。「孕む気配のない海」になってしまったのは何故か、作品の上では何も告発していませんが、それだけに考えさせられる作品だと思います。



詩の雑誌『鮫』87号
same 87
2001.9.10 東京都千代田区
鮫の会・芳賀章内氏発行 500円

 時代遅れ/瓜生幸三郎

時代遅れ≠ニいう名の焼酎がある
その名前が気に入って一本求めた
とうに時代遅れを自認している身には
仲間がひとりふえたようで
たちまち樹海の霧が晴れあがる

地球の自転にケチをつけることが
時代の進歩なのか
海も大地も
そこに住む生き物たちも
そっとしておいてほしい生態系を
力づくで変えるということが

生まれ落ちてから死ぬまでのジグザグ道を
人間が生み出した擬似非人間が
掌中に管理する時代とは
すでに人間が敗北を宣言するときではないのか

やがて
新時代に捧げるバべルの塔が
大衆の面前に建てられるだろう
そこでは華やいだ仮面舞踏会が繰り広げられ
その中に紛れ込んだ殺意の眼差しが
にやりとほくそ笑むことだろう

外濠はとうに埋められている
末来を抹殺する新製品はいかが
悪魔の甘いささやきが背後に迫ってくる

新時代の押し売りお断り
時代遲れ≠フ表札がいやにかがやいてみえる
悪魔のささやきにこれ以上だまされるな
永遠のかけらなどどこにも落ちてはいない

 「時代遅れ」というキーワードが効果的に使われた作品と言えましょう。「人間が生み出した擬似非人間」とはコンピュータのことかなと思います。コンピュータに代表される「新時代の押し売り」は考えなければならないことでしょうね。コンピュータについて言えば、私はむしろ信奉者の部類ですが、個人情報保護法という名の国家管理が現実化した現在、「すでに人間が敗北を宣言するとき」になってしまった感があります。
 そういう意味でもこの作品は決して「時代遅れ」なものではありません。「外濠はとうに埋められている」ことを教えてくれる最先端の作品と言っても過言ではないでしょう。現実を見つめる詩人の厳しい視線を感じます。



詩とエッセー誌ATORI49号
atori 49
2001.9.15 栃木県宇都宮市 高橋昭行氏発行 非売品

 旅の宿/神山暁美

海は満月を孕み 水平線がかすかに膨らむ
波立つ群青色の羊水から 泣きもせず月は生まれる
ひたすら謙虚な輝きは紗幕を透し
影にくっきりと輪郭をっけて風景を描く

自分の記憶をすっかり仕舞いこんでしまった義母と
昭和二十年の夏にこだわり続ける父と
そんな父に逆らうことを許されないまま
今日を生きる母の愚痴と
しがらみの枷を一日だけ外し
私は 旅の宿でホタルになる
月より寂しい明るさで夜にさ迷う

地中に七年 熱い一日を啼きぬいて蝉は三日
闇に舞い狂うホタルは二十日
義母も父も母も 八十年を生きて
自分だけの時間
(とき)を何日もてたろうか
おなじ親から
おなじように泣いて生まれた兄弟姉妹は
それぞれの土地で
こんな思いをもったことがあるだろうか

意地で支えた昨日までを 月の円みにゆるめて
私は 旅の宿で月下美人の花になる
ホタルより優しい明るさで
ほのかに咲いたひとときを香りで満たす

 「地中に七年 熱い一日を啼きぬいて蝉は三日/聞に舞い狂うホタルは二十日」ということは知っていました。生物のはかなさの象徴でもあり、そこに私も感情移入をしたこともあります。しかし、人間について「八十年を生きて/自分だけの時間を何日もてたろうか」という発想に至ったことはありません。生物の物理的な生命については考えていたけれど、人間の内面的な充実については考えていなかったことを指摘されたようで、愕然とした思いでいます。
 80年生きても、どう生きたかが改めて問われているのだなと思います。生命の長さの問題ではなく、いかに内容を持って生きるか、それが「一日だけ」の「旅の宿」であっても、1年にも2年にも匹敵することを教えられます。そんな「旅の宿」を私もまた求めなければならないのでしょう。



詩誌『火皿』98号
hizara 98
2001.8.20 広島市安佐南区
火皿詩話会・福谷昭二氏発行 500円

 豚の戦争/松本賀久子

豚の戦争
そう 豚の戦争があった
アメリカとカナダの国境にある
五大湖の中の島
イギリス人の連れて来たカナダ国籍の豚が
アメリカ人入植者の植えた野菜を
食べた

怒った
アメリカ人の兵隊が発砲
イギリス人が腹を立てて
戦争になった

なんでもないことで
死んだ豚は 寄り合いを開いて
トンカツにでもすればよかったのに
と思うのだが
そいつが
キャベツを食い荒らしてしまった後では
そうも 行かなかったのらしい

おかしな
豚の戦争
おかしな人々
今は
湖のほとりの美しい草原に
豚の看板
小さな
「ピッグズ・ウォー」資料館が宜っ

ところで
さっきから分からなくなってきているのだが
戦争が始まって
死んでいったのは豚だったのか
それとも人 だったのか

 おもしろい作品ですね。実際にあったことなんだろうと思います。馬鹿げたことで始まった戦争の見本のようなものでしょうか。戦争とは、いずれにしろ馬鹿げたことではありますが…。人類の英知という言葉があるのですから、人類の英知を結集すれば戦争なんか起きないはずなんですが、この作品では人類の英知がいかに低いかを示しているように思います。米国同時多発テロへの報復戦争は、人類の英知の指導的立場の国が始めようとしています。後世の歴史家から馬鹿げた戦争と言われなければいいんですが…。
 この号ではながとかずおさんが「原民喜没後50周年記念回顧展を終えて」を報告しています。準備期間が少ない中で苦労され、それでも4000人を超える来場者があったと書かれています。主催者のご苦労がしのばれるとともに、広島という地で文化活動を支える詩人たちの努力に頭の下る思いをしました。



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