きょうはこんな日でしたごまめのはぎしり
murasame mongara
新井克彦画:ムラサメ モンガラ




2001.9.29(
)

 第170回「KERA(螻)の会」というのが新宿「滝沢」でありまして、行ってきました。もともとはどういう会なのか、私にははっきりしないのですが、5年ほど前に行ったときは故・山田今次さんを囲む会のようなものでした。山田さんが亡くなったあとも続いています。詩に関する研究会のようなものですね。今回は会のメンバーである大貫祐司さんの詩集『川沿いの軌道』と、甲田四郎さんの詩集『陣場金次郎洋品店の夏』の合評会でした。

010929

 10人ほどの小じんまりとした会ですから、かなり言いたいことが言えました。激論、とまでは言いませんけど、それに近い合評でした。2時間という時間で2冊の詩集を論じ合うというのは、けっこうキツイですね。もちろん二次会で続きをやりましたけど…。性格の違う2冊の詩集ですから、おもしろかったですよ。写真の右の男性が甲田四郎さんです。大貫祐司さんの写真は、すみません、割愛。



白倉眞麗子氏詩集『ん・ん抄』
n-n syo
2001.9.30 東京都文京区 近代文芸社刊 1500円+税

 二人の母は

母の骨が鳴ると
痛みが肉を刺すというのに
一本一本の髪の毛をひじき≠ニして食べ肥った

肥った私は母の骨をしゃぶり舐め穿ち
歳月と共になおも囓り削った
そのエキスを子供に吸い尽くされても
二人の母は嬉々として骨を砕き
ただひとすじに祈りの姿を 続けている
白い骨であろうが 黒い骨であろうが
ぬかれた骨にもうろたえず
そう………軌みを忘れぬ骨灰よ
死んだふりなどしないで
骨と骨の間から人の血というものを凝視
するのだ

  にせ病で
  母のそい寝の
  あたたかき

 「二人の母」という解釈はいろいろに出来て、「肥った私」の実母と義母というふうにも考えられますし、「子供」に対しての母と、その母とも受け取れます。最終連を見ると後者の方かなとも思えますが、どちらでも良いのかもしれません。あるいはもっと別の角度からの鑑賞も可能でしょう。それよりも「死んだふりなどしないで/骨と骨の間から人の血というものを凝視/するのだ」という観点の方が重要に思われます。
 しかし、何と言っても最終連に惹かれますね。小学校にあがる前を思い出します。これは父親では真似ができません。他の作品にも母、女という視点が多く出てきます。そう生やさしい作品ばかりでなく、女性性というものを見つめた作品が多く、男の私には理解を超えたものが少なくありません。男、という以前に一人の人間としての感性を問われているようにも感じてなりません。



詩誌『布』14号
nuno 14
2001.9.10 千葉市花見川区
先田督裕氏・他発行 100円

 名なしの/阿蘇 豊

水面から首をもたげている
いつものように
二、三秒目を合わせ
「おはよう」
むろん返事はない
プラスチックのえさ箱をカシャカシャ言わせると
それでも首をさらに伸ばして
欠けたどんぶりを伏せた寝床から
這い出してくる二歩三歩
そしてじっとおれを見つめる(ような気がする)
指をさし出すと噛もうとするので
噛ませてやりたいがいつも
間一髪指が逃げてしまう
ゴメンよ
パラパラえさをおとしてやると
水面を波立たせて食らう
名なしのカメよ
オスかメスかも
その種類もはっきり知らないが(たぶん石亀)
ひと冬過ぎておれの内側に住み始めた
水を取りかえ
こうらを洗い
きのうと同じようにあしたも
えさをあげ
できたばかりの「元気」をもらうのだ
おつりはあげない

 何がまあ「名なし」なのかと思ったら、カメなんですね。まずタイトルがおもしろくて、それで釣り込まれて読んでしまいました。「指をさし出すと噛もうとする」…ん? 蛇か? 「噛ませてやりたいがいつも/間一髪指が逃げてしまう」…危ないことをしているなあ、と、どんどん先に進んでしまうのです。この辺のテクニックはさすがにうまいと思います。
 何と言っても「おつりはあげない」が決まっています。「元気」はもらうけど、その「おつりはあげない」というイジワルさが笑いを誘います。そう言う裏側にはカメを自分と同列に扱っていることが見えて、それも微笑ましい。阿蘇さんという人間がよく出ている作品だと思いましたね。



小島きみ子氏詩集
Dying Summer
dying summer
2001.7.26 長野県佐久市
エウメニデス社刊 1600円

 サフランいろの唇

言葉は
思考の形を示そうとしているのに
音楽になっている
夏が過ぎて行く九月の空は高く澄んで
言葉は
その人の前方の空間から
わきでるように奏でられる

人が成熟するということは
魂が、
ピュアになっていくということなのだろう
だからこそ思想は
瑞瑞しい言葉で語られ
混沌を切り開いて行く力があるのだ

わたしの傍らで
人の動く気配とともに風が生まれ
その風が意思のようにわたしを押す
わたしの肩に慈しみの
まなざしをのこして
風が、
わたしを押す

十月の、
霧雨の朝の庭に
サフランが群れて立つ
孤独であることは存在が明確になること
沈黙は深い安らぎ

花びらは、
やさしい唇のように
閉じた言葉のうえに微笑みを重ねる
きょう生まれたばかりの、
サフランいろの唇で
新しい思想を語りだす季節が来たのだ。

 感受性の敏感な人だな、と思います。「言葉は/思考の形を示そうとしているのに/音楽になっている」というフレーズは、言語の思考性と音楽性を敏感にとらえています。「人が成熟するということは/魂が、/ピュアになっていくということなのだろう」というフレーズも、普通は逆に感じるのですが、著者は、そうではないと言い切っています。それは思想の成熟だということを知らされ、これは納得してしまいますね。敏感なだけでなく、建設的な思考に新鮮味を感じます。
 「孤独であることは存在が明確になること」という言葉も、奥深いものだと思います。語り方が端的で、歯切れ良く思想を表現していて、「新しい思想を語りだす季節」なんて、ワクワクする気分にさせてくれますね。なかなか出会えない詩集だと思います。



小島きみ子氏詩論集
『思考のパサージュ』
shiko no pasaju
2001.7.26 長野県佐久市
エウメニデス社刊 非売品

 前出の詩集とともに送られてきた詩論集で、正直なところ、かなり難しいです。なぜ難しいかと言うと、詩を論じる根拠となっているものが哲学であったり宗教学であったりするからだと思います。その根拠をある程度知識として持っていないと、読み解くことは難しいでしょうね。私はもちろん、そちらの素養もなく勉強もしてこなかったので、半分も理解できていないと思います。
 しかし大きな収穫はありました。友人でもある原田道子さんの詩集『カイロスの風』についての論考が、かなりの頁を使って述べられていました。この詩集については、このHPでも紹介し、同人誌で書評らしきものを書いたのですが、私は現状の言葉への異議申立て、不完全な言語を一度解体して再構築を試みた、ととらえました。しかし、著者は次のように述べています。

「詩集に収められている作品には、いくつかの仏教用語が意味深く配置されている点が興味深く、瞑想によって生み出された作品群と思われる。したがって、日本語の語法が解体されているのではなく、彼女の生命観が詩の言葉で表現されていると見るべきであろう。」

 これには驚きました。「いくつかの仏教用語が意味深く配置されている」なんて思いもしませんでした。「瞑想によって生み出された作品群」とも気づきませんでした。指摘されてみると、確かにそのようにも読めます。これはどちらが正解かという話ではなくて、知識の有無の問題なのかなと思います。もちろん知識以前に、どう感じるかというのが主になりますけど…。
 知識に関して言えば、詩集にたびたび出てくる「か。ぜ。」という表現は、私は物理現象に関連して考えていました。風はカゼとして連続して吹くものではなく、途切れたり、強弱があったりします。それを単に風やカゼとして置くのは違う、と原田さんは感じたのだ、と受け止めたのです。読点が入るのは物理現象を観察した結果だと…。これなどは、まさしく自分の知識の範囲でしか考えていない、感じていないという証拠のように思います。非常に考えさせられる詩論集です。



詩誌『象』103号
katachi 103
2001.9.25 横浜市港北区
「象」詩人クラブ・篠原あや氏 発行 500円

 赤い花/加瀬 昭

少女は幼くして母を亡くしている その死があまりにも
突然なので 衝撃が大きく少女の歪みはなおらない そ
のとき母が多量の血を吐いたのを億えている 長じても
その鮮血の色が記憶に焼き付いている 伯母たちが母の
死を話題するとき 伯母たちの口から見え隠れする真っ
赤な舌が人生の秘密を抱えているようで その舌の赤さ
が少女を恐怖へと追い込んでいる

ある時少女は赤い花を見て内から突き動かされような高
ぶりを感じた そのときのとっさの行動をおぼえていな
い 背中を押されて花壇に飛び込んだと思っている そ
れからは無我夢中で整然と植えられた花の首を両手でむ
しりとっていた記憶がある 周りでは少女の形相に怖気
づいて制止するものはいなかった

時間を経て反芻をするたびに 汗を流しながらの奇怪な
行為を思い起こして身震いしている ひとびとの唖然と
した表情を思い起こす 恥ずかしさと恐ろしさで身も心
も萎縮してしまう そんなことがあって自分は異常では
ないかと不安をつのらせていた 赤い色をことごとく嫌
い赤い紙すらも避けるようになっていた いつかはひと
を殺めることもあるのではないかと恐れていた 初潮を
迎えて自分のなかには悪魔が巣食っていると信じはじめ
ていた

それからは内なる高ぶりのままに行動をし 内なる囁き
に促されて山の奥へ奥へと入っていった それっきりそ
の少女を見かけたものはいない 雪が溶けて山菜取りに
山へ入ったものが帰ってこない 赤い花に魅せられたの
ではと噂が広まり 花の妖しさに男たちは高揚していた
この村の男たちは赤い花探しを競い合い 赤い花を持ち
帰ったものがいないまま雪の冬を迎えた 次の春には赤
い花を抱えて息絶えているひとりの男が発見された

 なぜ人は狂気に走るか、を作品化したものだと思います。おそらく作品に示されているように、幼少期の記憶に起因しているのでしょうか、本人も気づかないままに。それが判れば「内なる囁き/に促されて山の奥へ奥へと入ってい」くこともないし、「赤/い花を抱えて息絶えているひとりの男が発見され」ることもないのかもしれません。非常に難しいことですが、そこまで迫る必要があるのでしょうね。特に詩人は自分自身を考えるときに、どこまで迫れるかが問われるように思います。
 作品としては、そういう論理性と最終連の幻想性がうまくマッチしています。論理の部分だけでは詩になりませんが、最終連があることによって詩として成り立っていると思います。論理と詩、という観点でも考えさせられる作品です。



   back(9月の部屋へ戻る)

   
home