きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.1.1(
)

 新年おめでとうございます、、、って、今日は16日なんです。昨年の元旦の日記は9日でしたが、今年はさらに遅れたことになります。この1年、どうなることやら^_^;
 昔のキャンプの仲間、FCAMPのメンバーに誘われて静岡県裾野市のキャンプ場に行ってきました。全員がキャンピングカーのオーナーで、6家族ほどが集っていました。このメンバーは家型テントのアウターを使って居住空間を作るのが好きなんですが、今回は何と6連装。ひとつが3畳ほどですから、全部で18畳の空間になります。椅子、テーブル、ストーブなどを持ち込んでヌクヌクとやっていましたよ。私の家族は酒だけ持って行って、椅子もテーブルも借りて、ついでに昼食もご馳走になってきました。こうやって、キャンプをやめてしまった当家にもお誘いがかかるなんて、昔の仲間というものはありがたいものです。
 夕方は帰りがけに私の実家に寄ってきました。その頃には私はすでにデキ上がっていましたから、何をオヤジと話したのが今となっては不明です。ずいぶん昔のことをグズグス言っていたような気がします。歳をとって気が弱くなっているのかな。ちょっと心配。
 まあ、これでようやく私の2002年も始まりました。本年もよろしくお願いいたします。



季刊詩誌『竜骨』43号
ryukotsu 43
2001.12.25 東京都福生市
竜骨の会・村上泰三氏発行 600円

 レールの近況/村上泰三

真っ直ぐに延びたレールの果てが ゆらゆらと揺れていた
そのあたりで 踏切りを渡っている女の日傘も 揺らいでいた

浜安善駅常備と 横腹に書かれていたのは
やや細身の タンクローリー貨車だったが
その隣りのレールに
でっぷりと 傲慢に構えていたそいつは
七○○○二の数字だけを残して
USAの文宇は 黒く塗りつぶされていたが
光線の加減で はっきりと読み取れたのだ

朝鮮半島を 真っ二つに引き裂き
メコン河のデルタ地帯に 枯葉剤をばらまき
湾岸地域に ミサイルをぶちこんだ
兵士たちや 物資を輸送するための
ジェット燃料用のガソリンを満載して
そいつは 米空軍横田基地への引き込み線を走っていた

また近頃 その黒々とした重量が レールに横たわっている
中東の山岳地帯の 山の頂きや 谷を叩きつぶすために

横田基地の金網の周囲には 銃を構えた兵士が立ち並び
日本人の警官までが 基地周辺を嗅ぎまわっている

レールは 人を運び 夢を運び 思い出を運ぶが
また 硝煙の臭いと 殺戮と
腐臭をも 運んでくるのだ

 テロと報復戦争については多くの作品が発表されるようになってきました。詩誌の発行タイミングから見ると、ここしばらくは増えるだろうと思います。そんな中で気になっていることがあります。社会問題を詩という作品にする場合の問題点が見えてきてなりません。はなはだしいときには、発生日時、場所などニュースで誰もが知っている内容を書くに過ぎない作品もあります。または単に一時の感情を吐き出すだけの作品。それらに接すると詩という文学をどう考えているのか、情けない思いにとらわれてしまうこともしばしばです。もちろん、私の作品は棚上げしておいての話ですが…。
 そんな思いでいるときに紹介した作品に出会いました。時事問題を扱うときのお手本ではないかと思います。決して叫ばない。怒りは行間に滲ませる。遠い中東の問題を横田基地という身近な地域に引き寄せて、自分の問題としてとらえる。事実関係で語らせる。基本的な詩作の姿勢を勉強させてくれる作品です。ぜひ研究していただきたいものです。
 私がこの作品で最も感激したのは、タイトルです。「レール」という物質に「近況」という人間に対する言葉を持ってくる。この発想はやはり並ではありません。完璧な詩の言葉です。こういう作品を書いてみたいものですね。



文藝誌『セコイア』26号
sequoia 26
2001.12.31 埼玉県狭山市
セコイア社・松本建彦氏発行 1000円

 日々是好日/長津功三良

ゆうがたしんちゃんがひさしぶりあんこうこうたけぇ
なべでもやろうちゅうてさそいにきよったけぇ
おまえさんをさがしちょったのいや
まさのりくんはくちょうじゃけぇそうだいさんなんかと
まつりのしたくにいそがしゅうちぬけらりゃぁせんし
びょうきあがりじゃけぇさけものめまぁかわいそぉなけぇさそわんかったぃ
おまぇんちぃいったらよめさんがおったがでかけちょるちゅうじゃろぉ
けいたいかけりゃあおいちっちょるけぇいえんなかぢなっちょるのい
まあいつもんとおりあいたにでのみよるんじゃろうちゅうてきてみりゃあ
あんのじょうもうあかるいうちからびーるやっちょるじゃぁないか

どようやしはちまんさぁのよいまつりじゃろうほりゃのみはじめるいや
もうろんぐかんさんぼんめやで

ええかげんしちいまからしんちゃんとこであんこうなべやろうけぇ
いまからこいやなんももっちこんでええけぇの
さかなもにくもやさいもちゃんとこうちゃるけぇ

しげちゃんなんもいらんちゅうちょいたのに
またびーるやすしゅうぎょうさんこうちきてみなぁくえんぞ
のこっつりゃまたあしたのあさめしにすりゃぁええいや
おいてるちゃんおまえものめぇや

なにこぉちゃんびーるはのまんのかほんならういすきーなんちいわんと
そこいさんじゅうごどのしょうちゅうがあろうがのそりょをおのみい
なにしょうちゅうはなまでのまにゃぁだめいや
さむいけぇゆでうべるちゅうんかまあしょぉがあるまぁ
とにかくおのみいしんちゃんもうしたかぁおいといちいっぱいおやりぃ
おまいさぁほんまさけがよわいけぇつまらんのぉ
まあこうしちよっぱらいのあいてぇしちょくれるけぇそいでええがの
このなべゃぁうまいのぉこのなすのからしづけゃぁほんまうまいで
なにかあちゃんのてづくりやてこりゃぁほんまあまいわ
おいせっかくこおちきたんじゃけぇすしゅうくえいや
なまもんじゃけぇあんましなごぉはおかれんぞ

ちいたぁのんだかいやぼちぼちごしんとうがあがるころじゃけえ
はちまんさぁのよいまつりぃいこぉかしんちゃん
おまいさぁのんじょらんのじゃけぇうんてんせぇいや
ああええきもちにのんだのんだ
こんななかまぢのむのがいっちええの
ええきもちによおた またやろうで

 作者には大変無礼なことかもしれませんが、漢字かな交じり文に翻訳≠オてみたい欲求に駆られています。私が原文をどの程度理解しているかという証にもなるように思います。やってみます。

夕方しんちゃんが久しぶり鮟鱇買うたけぇ
鍋でもやろうちゅうて誘いに来よったけぇ
お前さんを探しちょったのいや
まさのり君は区長じゃけぇ総代さんなんかと
祭の支度に忙しゅうち抜けらりゃぁせんし
病気あがりじゃけぇ酒も呑めまぁ可哀想ぉなけぇ誘わんかったぃ
おまぇんちぃ行ったら嫁さんがおったが出掛けちょるちゅうじゃろぉ
携帯かけりゃあ置いちっちょるけぇ家ん中ぢ鳴っちょるのい
まあ何時もん通り「あいたに」で呑みよるんじゃろうちゅうて来てみりゃあ
案の定もう明るいうちからビールやっちょるじゃぁないか

土曜やし八幡さぁの宵祭じゃろう ほりゃ呑み始めるいや
もうロング缶三本目やで

ええかげんしち 今からしんちゃんとこで鮟鱇鍋やろうけぇ
今から来いや何も持っちこんでええけぇの
魚も肉も野菜もちゃんと買うちゃるけぇ

しげちゃん何もいらんちゅうちょいたのに
またビールや寿司ゅうぎょうさん買うちきて 皆ぁ食えんぞ
残っつりゃまた明日の朝飯にすりゃぁええいや
おい てるちゃん お前も呑めぇや

なに こぉちゃんビールは呑まんのか ほんならウイスキーなんち言わんと
其処い三十五度の焼酎があろうがの そりょをお呑みい
なに焼酎は生で呑まにゃぁ駄目いや
寒いけぇ湯で薄べるちゅうんか まあしょぉがあるまぁ
とにかくお呑みい しんちゃんもうしたかぁ 置いといち一杯おやりぃ
おまいさぁ本ま酒が弱いけぇ詰まらんのぉ
まあこうしち酔っ払いの相手ぇしちょくれるけぇそいでええがの
この鍋ゃぁ旨いのぉ この茄子の辛子漬けゃぁ本ま旨いで
なに母ちゃんの手作りやて こりゃぁ本ま甘いわ
おいせっかくこおち来たんじゃけぇ寿司ゅう食えいや
生もんじゃけぇあんまし長ぉは置かれんぞ

ちいたぁ呑んだかいや ぼちぼち御神灯が上がるころじゃけえ
八幡さぁの宵祭ぃ行こぉか しんちゃん
おまいさぁ呑んじょらんのじゃけぇ運転せぇいや
ああ ええ気持に呑んだ呑んだ
こんな仲間ぢ呑むのがいっちええの
ええ気持に酔おた またやろうで

 多分これで合っていると思います。「ゆでうべる」が一番難しかったのですが「湯で薄べる」、湯で薄める、としましたが「なまでのまにゃぁ」とありますので茹でうべる#M燗にする、という意味かもしれません。「しんちゃんもうしたかぁ」は、もう支度は済んだか、という意味だろうと思います。方言の研究者ならもっとまともな解釈をするのでしょうが、素人はこんなところですかね。
 それにしても漢字かな交じり文の味気なさ。やはり原文通りの平仮名がよろしいようです。「しんちゃん」「しげちゃん」「てるちゃん」「こぉちゃん」がいて、「まさのりくん」は誘わなかった。そして「おまえさん」がいて語り手がいる。登場人物も多いのですが、その個性も見事に表現している作品だと思います。仲間の加わりたい^_^;



詩誌『詩と創造』38号
shi to sozo 38
2002.1.1 東京都東村山市
書肆青樹社・丸地守氏発行 非売品

 カミサマ へのテガミ/比留間一成

私は蚊を一匹殺しました
風呂場の板壁に
赤い汚点
(しみ)と黒い汚点がついています
蚊は子を生むために私の血が必要です
私はカユクてたまらない
一撃でしたから 痛みはなかったと
これは思い上がり

カミヨ ドウシテ イノチヲ
トリアワネバ 生キラレナイヨウニ
コノ世ヲツクラレタノデスカ
同時テロで親を失った子の泣き顔
アフガニスタンの飢えた子の悲しい頬

カミサマアナタノ地球経営ハ失敗
スグ辞表ヲ出ンナサイ 腹ヲ切リナサイ
エッ お手上げだ 人類にたのむ と
おっしゃるのですか
それを カミダノミというのです

 不条理というのでしょうか、「ドウシテ イノチヲ/トリアワネバ 生キラレナイヨウニ」なっているのか、私も不思議でしょうがありません。有機物はすべて「イノチヲ/トリアワネバ」ならないとしたら、なぜそうなのか、考えれば考えるほど不条理の世界に踏み込んでしまいます。それが「イノチ」というものと諦めてはいますが…。
 作品の表現としては「腹ヲ切リナサイ」という思い切りの良さ、「カミダノミ」という洒落に魅力を感じます。「これは思い上がり」という謙虚さも好感を持ちます。でもやはり、不条理を表現したところに惹かれますね。ヒトゲノムの解明で少しは理解できるようになるのでしょうが、有機物の範囲をどう越えるのか、興味のあるところです。そんなことまで考えさせられた作品でした。



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