きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科 |
2002.1.9(水)
職場の新年会がありました。職場と言っても部単位ですから400名近くが対象になります。そのうち参加者は200名以上。三交替勤務で参加できない人も多くいますから、まあ、かなりの出席率だと思います。例年通り社員食堂の2階を借り切っての大宴会です。この集りは不思議に私は幹事をやったことがないので、毎年のんびりと参加させてもらっています。
例年、鏡割があって、樽酒を呑むのを楽しみにしていますが、その期待は裏切られませんでしたね。銘柄は忘れましたけど金井酒造という所の酒で、結構イケました。でも驚いたことに樽の半分が上げ底だったんです。理由を聞いてみると、毎年かなり残ってしまい、もったいないから今年から半分にしたそうです。確かにね、私がいくらがんばっても呑みきれませんワ。今年はちょっと控えて4合ほどにしちゃいましたしね。
樽酒には枡、と決っています。でも枡には枡だったけど、何と漆塗り。高級感があるのは判るけど、やっぱり杉のムクの枡がいいなあ。木の香りをかぎながら塩をなめて、というのが最上だと思うんですが…。まあ、安い会費でたらふく呑ませてもらえるから、あまり文句も言えませんがね。
○末川茂氏著『忘れがたみ』 |
2001.12.1 京都市伏見区 都大路の会刊 2000円 |
柿ノ木
柿若葉の美しい
絵本にでてくるような
こぢんまりとした駅だった
あなたは会釈して
胸のあたりで恥ずかしそうに手を振った
----びっくりされたでしよう田舎で
村役場の角を曲り学校の校庭の横に
みどりに燃える若葉の柿畠
実家はそこに建っていた
故郷を持たない僕にとって
いつしかここが故郷に思われた
窓から柿畠を眺める五衛門風呂
蝉時雨の中の一時のうたた寝
あれから四十年の歳月
故郷は様変わりした 柿畠は住宅に
蝉や小鳥も居場所を失った
そして
----これでも私は木登り得意なの
と、軽がると上に登っていった妻も
この世にもういない
何事にも愚図の僕を残して
詩と随想による、奥様への鎮魂集です。夫婦のあり様、著者の生活哲学が判る大書と言えるでしょう。お孫さんたちや、そのお友だちまで絵を描いてくれて、それを所々に散りばめるという、うらやましい本でもあります。そのひとことからも著者のお人柄が判ろうというものです。
奥様に先立たれて「何事にも愚図の僕を残して」と言わざるを得ない著者の心境を思うとき、何か熱いものがこみ上げてきます。経験もない私には軽々しく言えませんが、「この世にもういない」という事実の前で、著者がどんな思いでいるのか、他の随想を通しても万分の一も本当のところは窺い知ることもできないのかもしれません。ご冥福をお祈りするばかりです。
○詩誌『都大路』30号 |
2001.12.1 京都市伏見区 都大路の会・末川茂氏発行 500円 |
猫を捨てる/中野輝秋
叔父が亡くなり暫くすると
姿さんが猫を捨てて来るように言った
----暮らしが大変なんだからね
捨てて来るのだよ
姿さんも辛かったと思うけど
少年はさらに辛かった
姿さんの家では
少年だって厄介者
猫の次には自分も捨てられる
と
思った
その日は夜
少年は自分で白分を捨てに行く夢を見て
泣いた
何人かの人には覚えのある光景だと思います。私には幸い「猫を捨てる」という行為はありませんでしたけど、捨てられた猫は何度も見てきました。そういう中で「姿さんも辛かったと思うけど」は重要ですね。捨てる側の心理がきちんととらえられていると思います。そして「猫の次には自分も捨てられる」というフレーズも驚きとともに、そういう時代もあったなと感慨させられます。今の時代で見失ったもののひとつを描いた作品と思います。
○詩と童謡『ぎんなん』39号 |
2002.1.1 大阪府豊中市 ぎんなんの会・島田陽子氏発行 400円 |
シャコバサボテン/中島和子
シャコバサボテンが
しだれ花火のように咲いている
おばあちゃんは
パクリとごはんをひと口
シャコバサボテンの鉢をながめる
----まあ きれいなお花
そうして
また パクリとひと口
----まあ きれいなお花
はじめて花を見るみたいに
はなやいだ声で 何度もくり返す
いつものことだから
父さんも 母さんも
何も言わない
----まあ きれいなお花
私はたまらなくなって
言ってしまった
----何回 おんなじこと言うの!
おばあちゃんは すまして答えた
----そやかて 何回見ても きれいやもん
父さんと母さんが
プッと ふきだした
私も アハハと笑った
おばあちゃんは きょとんとして
それから ほっほっと笑った
つぎの日
おばあちゃんが 死んだ
今年も
シャコバサボテンが
しだれ花火のように咲いている
家族のあたたかさを感じさせる作品だと思います。「つぎの日/おばあちゃんが 死んだ」という強烈なフレーズにも切羽詰まったものがなく、順送りの行事を淡々とこなしているような印象さえ受けました。もちろん当事者にそんな淡々≠ニしたものなどなく、大変なことだったろうと想像していますが、それを越えたものを感じる次第です。
「おばあちゃん」のお人柄も「ほっほっと笑った」というフレーズにうまく表現されていると思います。「----まあ きれいなお花」という繰り返しとともに、あたたかな家族を作ったあたたかな人柄を偲びました。
○個人誌『むくげ通信』7号 |
2002.1.1 千葉県香取郡大栄町 飯嶋武太郎氏発行 非売品 |
水泡/朴相泉(パクサンチョン) 李桓姫訳
深みから湧きあがり
そのまま自分を捨ててしまう
併せて軽い体重をも捨て去ることで
彼は何の痕跡も残さず
未練なくこの世を去っていく
私たちが余りにも永い間
名を残すとか 或いは
立派な詩を残すとか
何か残したいという思いに駆られつつ
自分を捨てきれずに暦を操ってきたが
そんなことはどうでもいい
ただ この世のどこかを漂い流れる
空気として残ればいい
あなたの愛も
あなたの悲しみも喜びも
あなたの詩でさえ
水泡のように消えて
漂い流れる空気となればいいではないか
あなたがここを訪れたという
その痕跡をとどめないことに
あるいは未錬が残るかもしれないが
いいではないか
君は蒼穹を充たす空気でさえあれば
(凧と案山子所収)
非常に潔い作品で驚きました。「水泡」というタイトルも良いと思います。こんな気持でいることが、やがて「立派な詩を残す」になるのかなと思います。作者はそれさえも「どうでもいい」ことと言っていますが、それは後世の人が判断することなのかもしれません。
主宰の飯嶋武太郎さんが「所長の嗚咽」というエッセイを書いています。千葉県畜産総合研究センターに勤務する飯嶋さんが、例の狂牛病に遭遇したときのことを書いたものです。46頭もの牛を殺さなければならないことを命令する所長の、文字通りの嗚咽を伝えたものですが、畜産研究に携わる人の誠実さを感じさせるエッセイでした。事件の裏の意外な面を見せられました。
(1月の部屋へ戻る)