きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.1.18(
)

 職場の歓送迎会がありました。職場と言っても自分のグループだけですから、10名ちょっと。呑み会をやるにはちょうどいい人数です。久しぶりで小田原駅前で呑みました。以前、煙草屋だった店が呑み屋さんに変っていて、居酒屋風のいい感じでした。でも、いい日本酒は置いてなかったですね。「一ノ蔵」がありましたからそれを呑んで、焼酎は「神の河(かんのこ)」を呑みました。このふたつは、まあまあお薦めです。
 一次会のあと皆はカラオケに行ったようですが、私は行きませんでした。なぜだろう? 自分でも不思議です^_^; 体調が悪かったのかな? まあ、そういう日もあるということで納得しています。



詩誌RIVIERE60号
riviere 60
2002.1.15 大阪府堺市
横田英子氏発行 500円

 黒いアゲハチョウ/永井ますみ

入り口に一対の大きな花株が置かれ
黄色い菊
白い菊

風が時折過ぎて初秋を感じさせる

黒い衣装の人たちが
建物からあふれ
テントの椅子からあふれ
広場からあふれ
照りつける日射しに煎られながら
散開していた

そこへ貴方は現れたのだった
そわそわと遠慮深げに私達に挨拶しながら
背中に二ッ紋
黒いアゲハチョウの形で

医師として地域の医療に尽くし
お寺の檀家総代として三十も勤め
片方の手で
詩をコツコツ書き続けてきた

金襴の衣装を付けた
僧侶二十人余の朗々の誦経の間に
それらの言葉がマイクから放たれる
黒い服の私はそれを受けとめる
それらは
直ちに私を問う言葉でもあった

社会を生きること
詩を書くこと
それぞれの事象が 矛盾することなく
わが身に納まり 循環しているか

柔和な表情で頷き
博学な補足をしてみせる貴方は
すでにアゲハチョウになってしまって
言葉を足してはくれない

 昨年9月に亡くなった植嶋亨介さんの追悼特集号です。紹介した作品はその葬儀の模様を描いた詩です。私は植嶋さんに二、三度ほどしか合っていませんが「柔和な表情」の方でした。お医者さんであったことも存じ上げていましたから「博学な補足をしてみせる」方だったろうなと想像にかたくありません。「言葉を足してはくれない」という最後のフレーズから、同人の皆様の無念が伝わってくる作品です。
 それにしても「僧侶二十人余」とはすごい葬儀だったようですね。人の偉大さは亡くなったときに判るのかもしれませんが、そういう方だったのだなと改めて認識しました。ご冥福をお祈りいたします。



詩誌『孔雀船』59号
kujyakusen 59
2002.1.10 東京都国分寺市
孔雀船詩社・望月苑巳氏発行 700円

 半化粧の昼下がり/望月苑巳

たぶん、沈黙は言葉より恐ろしい。
半化粧の昼下がり
半分白くなった顔のあたりを
そよと夏の手が触れてゆく
苞葉は盛夏になると緑色に変身するのだが
まだ夏至から十一日
ひとは暦の半夏生と混同するのだ。

さようなら。
壊れゆく家族の角度ほど鋭いものはない。
父は折れ、母は伏し、
兄は直角に咳き込み、妹はビオラのように泣いた。
あの峠を越えたら、水の惑星に辿りつけるのだと
希望を楕円に抱きしめて
卵のように潰す。
窓の中の偏愛は染み出さないうちに枯れた
沸騰する私は、蒸気の一滴一滴を
玉葱のように剥くしかなかった。

美しい日差しを肩から払い落とし
じっとりと油蝉が体の中で鳴き始めると
向日葵の黄色い影で沈黙が煮詰まっていた。
たぶん、朝まで私は
私の皮膚で私の骨を磨きつづけるだろう。
フィヨルド状に入り組んだ心をほぐしても
魂は水のように溢れるだろう。
半夏生の葉の色は変わらず
盛夏のひとは、途方に暮れて沈黙する。
  (半夏生=ドクダミ科の多年草)

 「沈黙は言葉より恐ろしい」というフレーズに惹かれました。そして、それがこの作品のテーマでもあると思います。非常に入り組んだ魅力的な喩がたくさん出てきますが、すべては「沈黙」へと帰結するのではないか、と読みとっています。「半化粧」と「半夏生」の掛詞もおもしろく、ついついそれに引き込まれてしまいそうですが、作者の意図はやはり「沈黙」でしょうね、間違った見方かもしれませんが…。
 気をつけて見ると「半夏生」についてかなり隠された説明をしています。「楕円」は葉の形を言っているようですし、他にもまだあるかもしれません。それらを追いながらこの作品を鑑賞すると、多重構造になっていて、なかなか一筋縄ではいかない詩だなと思いました。



詩誌REJOICE4号
rejoice 4
2001.11.20 茨城県ひたちなか市
REJOICEの会・武子和幸氏発行 200円

 日時計/近藤由紀子

広場の中央は 大きな日盛盤になっている
シロツメクサの地面に
丈高い指針を置いて
平らに埋め込まれた御影石のラインが
放射状に拡がっている

今日は十月の光の多い日だ
わたしたちを覆っている色が
哀しみの色であることを
つかの間 忘れさせる程に
広場は 懐かしい人の手のひらのように暖まって
いくつかの人影を休ませている

まっすぐに伸びるラインは
わたしのささやかな一日にも届いて
今日という日を読み直す
補助線のよう

流れる者は聞こえてこない
渓流のような音をたてているはずだが
満ちている悲鳴にも似たざわめきに
かき消されていて

指針の影は 間もなく四時のライン
垂直に受けたものを やさしく水平にして
長さと方向 シンプルな
右回りの移動で教えてくれる

いつしか長くなっている
わたし自身の影を曳きながら
十時を踏み 正午を終えて
指し示す指先あたりに立ってみる

幾何学的で簡潔な線分は
黙示のような遠近法で 指針に向かい
一点に引き絞られている

相似のものに抱えられているらしいと
はるかな帰着を予感しながら
もうしばらくは わたしたち
時間の野原に放たれている

見覚えのある人が 小さく屈んで
シロツメクサの中から六時を取り出している
あすの朝 最初の日影が置かれる辺り

 時間を計測する日常的な機械とは違う「日時計」。その計測の仕方への新たな発見が新鮮な喜びとなって表現されている作品だと思います。「垂直に受けたものを やさしく水平にして」「六時を取り出して」などのフレーズにそれを感じます。しかし、その奥には「わたしたちを覆っている色が/哀しみの色である」ことをちゃんと見据えていて、表面的なものだけに心を奪われているわけではないことを教えてくれています。
 「今日という日を読み直す」「時間の野原に放たれている」「最初の日影が置かれる辺り」など、それだけを取り出しても一編の詩ができそうなフレーズが多いですね。作者の底知れぬ才能を感じさせる作品だと思います。



総合文芸誌『中央文學』457号
cyuou bungaku 457
2002.1.25 東京都品川区
日本中央文学会・鳥居章氏発行 600円

 ハイ・テクノジー/朽木 寛

目がくらみ視点も定められず
《時》のジェット・コースターに乗せられ
ぼくは いま ぼく自身を見つめている
幻想にすぎなかった あの母の愛撫を邪険にも拒絶し
うたた寝 甘えていた 乳臭い《まほらば》の思想から目覚める
その一方で
無定形な感情が たちまち芽吹き 苛立ちを孕みはじめ
ぼくは ものみな 破壊する
未成熱な志を握りしめながら
あらゆる《IT》の否定と
みずからが《キャリバン》であることの
発見

見たまえ
ぼくの手のひらで
赤剥けた時代が その無防備な姿を曝けだしているではないか

            ※キャリバンはシェークスピアの『あらし』に登場する醜い人物。

 私自身がIT≠使っている身として感じていることですが、IT≠ネどというものは「未成熱な志」でしかないし、いずれ「その無防備な姿を曝けだして」くるものと思っています。最先端などという際物は常に陳腐になる危険性を持っているものです。IT≠ネど、道具として使えばよろしい。そのことをこの作品も伝えようとしていると受け止めました。朽木さんが時代の先を一歩早く見つめているということでしょう。
 タイトルの「ハイ・テクノジー」は「ハイ・テクノロジー」の誤植と思います。
 久坂幸緒氏の小説「有限会社ブルー・ノート」は、理想を追って設立した児童書出版社が倒産寸前になる一日を描いた作品。5名の社員の心理描写が巧みで惹きこまれました。設定時間を一日と限定したことが奏効していると思いました。全共闘世代のその後を描いたという点でも佳作と言えるでしょう。



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