きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科 |
2002.1.28(月)
職場の懇親会の幹事引継ぎが行われました。と書くと何やら仰々しいのですが、要は呑み会。形だけでも引継ぎらしきことはやるんですが、私は遅れて行ったので本当にやったかどうか。もう呑み会は始まっていました。当然、私もすぐに加わりましたよ。気持の用意はいつでも出来ていますからね^_^;
会社の付属施設での呑み会ですが、生協が運営していますからお酒もかなり揃っています。浦霞、土佐鶴、八海山と、これぞと思う酒は次々と注文しました。もう一種類呑んだんですけど、何を呑んだか忘れています。何だったのか今頃になって気になるけど、まあ、楽しく呑めたからいいや。
○高岡修氏詩集『梨花の時間』 |
2001.12.31 鹿児島県鹿児島市 ジャプラン刊 2000円+税 |
梨花の時間
死後をやめなさいと
担当の教師は言った
梨花の時間のことである
しかし
それがどんな寡黙の授業であれ
陽射しあふれる午後の教室というものは
死後で満ちているものだ
ましてや
物質の柔力に関する時間のことである
だれも死後をやめたりなんかしない
頬杖をついたり
体を半身にしながら
みんな
明かるい
死後の柔力のなかにいた
シュールリアリズムの元祖と言われるロートレアモンに『マルドロールの歌』という詩集があります。確か彼はそれ一冊しか遺さなかったと記憶しています。100年前の話です。その中に「解剖台の上のミシンと蝙蝠傘の突然の出会いのように美しい!」という有名な詩句があります。詩集を拝見しているのその言葉が頭に甦ってきました。
紹介した作品はそれとはちょっと違っている部類の詩ですが、やはり近いものを感じますね。もちろん「死後」は私語、「梨花」は理科、「寡黙」は科目、「柔力」は重力のことです。そう置き換えて読んでもいいけど、ここはやはり原文通りに読みたいものです。「死後の柔力」なんて、まるでロートレアモンの言葉のような錯覚を受けるのです。「死後をやめなさい」なんて言われると、死後の世界に立脚する宗教への批判でもあるように読めます。なかなかおもしろい詩集でした。
○季刊詩誌『楽市』43号 |
2002.1.1 大阪市中央区 創元社発行 1000円 |
二○○一年十一月十日のごった汁/司 茜
そこあけて下さい 危ないですよ
血だらけの制服の学生を載せたストレッチャーが
狭い救急病院の待ち合いの廊下を走ってくる
げんこつやまのたぬきさん
おっぱいのんで ねんねして
だっこして おんぶしてぇ
またあした
あっ またまちがえた
もういっぺん
げんこつやまのたぬきさん
身振り手振りで戯れている
頭に包帯を巻いた男の子と母
の前をストレッチャーが擦り抜けていく
一緒についてきたサングラスの男が
坊主 邪魔や 邪魔や 退かんか
大声をはりあげ
母子を睨みつける
瞬間
母にしがみつき
大声で泣く男の子
頭を撫でる母のお腹はふっくらしている
空爆が統くアフガニスタン
その寒空の下 逃げまどう子供たちには
しがみつく母はいるのか
子の頭を撫でる手が 母にはあるのか
歌を歌う口はあるのか
ニンジン ゴボウ シイタケ タリバン
アメリカ イギリス アフガニスタン
パキスタン ロシア キクナ キヌサヤ
サケ サケノアタマ ビン・ラデイン
アルカイダ ホクブドウメイ ユリネ
ブッシュダイトウリョウ ニッポン
コイズミシュショウ ネギ ジエイタイ
ソレカラ ソレカラ
溢れる 溢れる
熱い!
司さん
2番へ入って下さい
ほんとにまあ、「ごった汁」のような作品ですね。特に第5連がすごい。台所仕事をしながらテレビを見ているんでしょうか。そう思っていると、ああそうだ、病院でのことだったんだと気付かされます。2001年のある一日を切り取った、おもしろい詩です。同時多発′サ象とでも言えそうです。
世界もひとりの人生も、この作品のようなものなのかもしれません。あることをなるべく忠実に説明しようとすると、こういう形のならざるを得ないでしょう。その「ごった汁」の中に私たちは生きている、そんなことを改めて教えてもらった作品です。
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