きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.2.3(
)

 山岡遊さんの第一詩集『覆面力士伝』の出版記念会が西新宿でありました。長谷川龍生さんが発起人になっていましたから、もしやと思っていましたら案の定、龍生塾のメンバーが主体でした。20名ほどの厳選された(主催者の弁)参加者の中で、中正敏さんや私など4名が客分≠ナした。これは挨拶させられるな、と思っていた通り、かなり早い時期に挨拶を請われました。まあ、そつなくやったと思います。
 八木忠栄さん、井川博年さん、野村喜和夫さん、石黒忠さんなど錚々たるメンバーの中でちょっと気後れしましたけど、なーに、山岡遊に会いに来たんだと思って呑みました^_^;

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 写真はギターを爪弾く山岡遊、という図ですね。山岡さんとは初めて会ったと思っていましたけど、山岡さんに言わせると初対面ではないそうです。そういえば『布』の会で会っているかな? 男は覚えていません^_^; でも、おもしろい男で、結局3次会まで付き合っちゃいました。本人は、今夜は野宿してホームレスをやるんだ、と言ってましたけど、雨だったしなぁ。明日はペンクラブの委員会もあるし…。でも、昔、さんざんやった野宿をたまにはやりたいですね。寒さに震えながら見る朝の太陽って、いいもんなんでよ。何はともあれ、山岡さん、第一詩集、出版おめでとう!



詩誌『JO5』27号
jo5 27
東京都江東区 岡姫堂発行 300円

 上述の山岡遊さんの出版記念会で阿賀猥さんよりいただきました。「JO5」という名前は知っていましたが実物を見たのは初めてです。分類上、一応詩誌≠ニしておきましたけど、対談あり評論ありで、正確には詩心≠表現した雑誌というところでしょうか。
 巻頭の対談「論争 テロと貧乏 −違う、富がテロを作り出すのだ」はいい企画です。視点も経済論にまで及んでいて、非常に深い。様々な文献・評論を根拠とした論争が展開されて、上滑りでないものを感じます。男女の別をあえて言う必要はないんですが、それでも女性4人の対談という点に驚かされました。世の男どもよ、身を安全な所に置いて口を閉ざす、なんてことをしないでちゃんと発言しろよ、と言ってみたくなりました。
 それはそれとして、ここはやはり詩のHPですから、気になった詩を紹介してみましょう。


 首/田中浩司

彼はゆっくりと歩いている
やはり思ったとおり
大きなハサミを持ったヒトが
彼の首を切ってしまった
血は噴射した

バイバイといい
そこの壁で私は彼と別れたが
首がないことが少し悲しく思う
私も彼も少してれながら手をふった

 喩としては大きいのか小さいのか判断に迷うところですが、どちらにとってもいいのではないかと思います。「首」をそれこそリストラととってもいいし、個人の失望と考えてもいいでしょう。大事なのは「彼はゆっくりと歩いている」「私も彼も少してれながら手をふった」という感覚ではないかと思います。社会や個人にとって重たいものでさえ「ゆっくり」「てれながら」と感じる、表現する作者に共鳴します。声高に叫ばず、あるものをあるとして受け止める姿勢が、ある意味での現代を感じさせてくれます。それは良い悪いという価値観ではなく、その双方を受け止めているのではないでしょうか。真摯という言葉さえ笑って見逃す、そんな感覚をこの作品から受けました。



詩誌『蠻』128号
ban 128
2002.1.31 埼玉県所沢市
秦健一郎氏発行 非売品

 男と女/月谷小夜子

温った部屋のよどんだ空気は
秘めごとを深く深く沈め
どこまでも静かだ

けだるい紫煙のゆくえ
----銘柄を変えたね
ポワゾンという名の香水
----嫌いだったのに
入り交じる至福と不安

女は厚いくちびるをゆがめて
中指とそして薬指をかむ
次にいつ会えるかわからない悲しみに
なすすべもなく心を乱すのに
男は耳元で小さくささやく

「無理をしないで
 時間は一生あるからね」

 「秘めごとを深く深く沈め」た「男とおんな」。それはそれで格好の詩の材料ですが、この作品の場合、最終連に惹かれました。時間の観念も哲学や詩の材料として重要なものですけど、一生と等分とする発想に敬服します。当り前過ぎて表現できなかったことが見事に逆転して表出されています。固い頭を柔らかくさせてくれる、こういうフレーズには本当にヨワイですね。
 散文では川端実氏の「我が青春の収斂の記憶」に注目。30代という若い時期にたった3年間勤めた会社の社長との交流が、現代の変に機能化された企業への忠告と受取れて読み進みました。川端氏と社長の人物像がうまく描かれていると思います。秦健一郎氏の長編連載「油屋熊八物語」も楽しい小説です。別府の立志伝中の人物を描き、大正時代の観光業というおもしろいところにスポットを当てています。起業とは何か、客とは何かを現代に問う小説と言えましょう。



筧槇二氏随筆集『残日余情』
山脈叢書28
zanjitsu yojyou
2002.2.1 神奈川県横須賀市 山脈文庫刊 1000円

 同人誌『山脈』代表の筧さんの随筆集です。あとがきの「メモ」に「この十年あまりの間に諸方の雑誌や新聞書いたもの」とありますから、『山脈』でお書きになったものもかなり含まれており、私もすでに拝見している文章が多くありました。しかし、そんな中にも拝見していないものはあるもので、「詩の表現について」という随筆は記憶にありません。モノを書く上で重要と思いますので紹介してみますが、とても抜書きで説明できる文章ではありません。ちょっと長くなりますけど、正確を期すためにも全文を引用します。

 詩の表現について
 石川啄木が「弓町より
----食ふべき詩」を東京毎日新聞に連載したのは、一九○九年、彼の死の三年前だから数え年では二十四歳のときになる。
 若くして鼻ッ柱の強かった啄木らしく、やたらに「である」の頻発する断定的文体の評論だが、「両足を地べたにくつつけてゐて歌ふ詩」という現実主義の主張は、それから九十年を経た今日でもなお論じられていいテーマであるように思う。
 このエッセイにおける啄木の主張は、口語自由詩の擁護と、いわゆる浪漫派や象徴派の詩人の排除にあるのだが、口語と文語の表現の差を論ずるくだりでかなり面白いことを言っている。 「『ああ、寂しい』と感じたことを『あな、寂し』と言はねば満足されぬ心には、徹底と統一が欠けてゐる」というのだ。
 人間は誰でも、ものを考えるときには頭の中身を言葉に置き換えて考える。英米人は英米語で考え、中国人は中国語で考え、日本人は日本語で考える。そして、どの民族語で考えても、その人の思想はその人の日常語による思考であるはずだ。
 とすれば、「ああ寂しい」と感じたことを「あな寂し」と書かねば気のすまぬ人は、生活実感と表現が分裂しているわけで、「徹底と統一に欠ける」という啄木の言い分もなるほどと道理に見える。
 話し言葉と書き言葉の分裂は、平安朝末期の平氏政権以来の現象だから、分裂の歴史は延々とつづいているわけで、啄木の言い分をそのまま鵜呑みにすると、今でも文語で書いている短歌や俳句の音数律畑の人たちにとっては、定型の存在そのものを否定されてしまう身も蓋もない話になってしまうのだが、“現代詩”と称する口語自由詩畑の詩人たちにも、この分裂現象はかなりな部分で的を射た話になってはいないだろうか。
 口語で書いてはいても、意味不明、意図不明の現代詩≠ェうろちょろと横行している現象には、あれは彼らなりの書き言葉だというより仕方のないしろものが多い。
 啄木が偉かったなと思うのは、詩の言葉が変れば表現される精神も変ることを知っていたところにある。
 文語と口語の単純な差の問題から暫く離れて、とかく難解と敬遠される現今の詩人たちに目を移しても、難解晦渋な詩を書く人と平易平明な詩を書く人とでは、精神の在りどころは全くちがっているように思われる。
 詩の芸術性の尺度は詩人個々の問題だから、頭から難解な詩を否定するつもりはない。それなりに表現の深度を持って筋の通った詩もあるのだ。逆にちんたらと身辺雑事を綴っただけの、うんざりする平易な詩だって掃いて棄てるくらいにたくさんある。
 ほんとうは、わかりやすい平明な詩を書くほうがよっぽど難しいのである。
 日常語はいつでも裸で身を晒している。言葉が身を晒せば精神も身を晒す。表現の逃げ場がないのだ。ところが詩というやつは、適当に身を隠す部分がないとちっとも面白くはないのである。だから困る。芝居の台詞の間
(ま)のように、行間にものをいわせるうまさを身につけている詩人はそれほどたくさんいるわけではない。またそういう修練は一朝一夕に修得できるものでもない。
 だから晦渋な言葉の傘に隠れた詩人が横行する。下手な人ほど、そのほうが楽なのである。詩の世界の話し言葉と書き言葉の分裂は、かくしてますます鋭角化する。
 啄木はまたこうも言っている。
「詩人はまづ第一に『人』でなければならぬ。第二に『人』でなければならぬ。第三に『人』でなければならぬ」
 これはスターリンの演説のレトリックの借用ではあるけれども。

 これ以上つけ加えることは何もありません。文章のキレ味や行間に隠された言葉にもご注目ください。当初は一部を引用して、と考えましたが結局それが出来なかったこともお分りいただけると思います。良い詩を書くためには良い散文も書くこと、筧代表に教わった言葉です。



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