きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科 |
2002.2.12(火)
職場の歓送迎会。わがままを言って、いろいろな日本酒を持ってきてもらいました。ひどい酒が多かったのですが、「日出盛」はまあお薦め。「土佐鶴」はもちろん言うことなしで、一番良かったのが弘前の「じょっぱり」ですね。名前だけは知っていて初めて呑みましたけど、これはいい酒です。ファンになってしまいました。やはり私の口には東北や新潟の酒が合うようです。
職場の呑み会ではそうやっていろいろな日本酒を頼むものですから、自然に酒好きが回りに集ってきて、品定めをするようになりました。皆で品評しながら呑むのは、またうまいものです。女性陣も意外に日本酒好きが多くて、会話も弾みました。いろいろ呑んだけど、会計は足りたのかな?
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○個人詩誌『粋青』28号 |
2002.2 大阪府岸和田市 後山光行氏発行 非売品 |
空/後山光行
戦前派だから
戦中派だから
戦後派だから
団塊の世代だから
生きにくいのではないだろう
いつものことだけれど
見上げた空の
雲が厚すぎて重苦しいのだ
青い色をした夢を
持ち合わせていないだけに
後山さんらしいロマンに満ちた作品だなと思います。それに「団塊の世代」ということにやっぱりこだわりがあるんだな、とも思いました。私も同じ世代ですから、判る気がします。いわゆる団塊の世代≠ヘ、小学生の頃から何かと言われて来ましたからね。知らず知らずのうちに自分たちの世代を意識するようになったのかもしれません。後山さんのロマンは、実は私たち世代のひとつの特徴ではないかとも思っています。
毎回楽しみな「伴勇の我楽多ノート」はなつかしく読みました。伴さんの癖のある字が紹介されていて、亡くなる直前まであの字に悩まされていたことを思い出しています。生きていたら、相変わらず皆の詩集を風呂敷に詰めて、本屋に売って回っていただろうか、写真嫌いは直っただろうかと思い出すことは尽きません。まあ、いずれ会えるか。
○湧太詩誌 No.7『彼岸』 |
2001.12.23 栃木県茂木町 彩工房発行 非売品 |
彼岸
分娩の熱くたぎる血は蒸発した
ぼくが生まれでた証に
心臓が止まり
心電図が一本の線になっていく
幼い日の出来事は異常に鮮明で
何から何まで憶えている
胸の穴から吹きだす
乳汁の甘い臭いに
窒息する
遺体には時効もなかった
胸の辺りから微かに響いてくる
音だけ
を
膨張した耳で吸いこんでいく
吹きあれる鬼籍で蘇生した
地蔵が並ぶ
小径を
乳母車のように
棺桶を押してあるく
半ば陶酔した少年がいる
ぼくは羊水の中でご機嫌だった
一端をぐっとつかまえて
口をつぐんだまま
両膝をひらいた
彼岸で
交わらない
血が沸騰している
1995年8月の「東京詩学の会」に提示した作品のようです。非常に観念的で難しい作品ですが、同会で発言した嵯峨信之さんの声がテープ起しされていて、それを頼りに読んでみました。「ぼく」は死んで生れたのである、という前提で読むと理解しやすいと思います。いずれ死ぬ身であるのだから、死んで生れたという発想で世の中を見ると、こうなるだろう、と読み解いてみたわけです。そうすると何の矛盾もなく書かれていることが判ります。
第2連は、喩ではなく現実に「ぼく」の身に起ったことではないでしょうか。視覚、聴覚が非常に敏感な印象を受けます。その敏感さで死んで生れた≠ニいう意識に立つと、こういう作品は生れて当然だな、とも思います。以前から感じていたことですが、この詩人に対しては一般的な常識を当てはめてはいけないと思います。お会いしたこともない方ですから、簡単に断定するのは間違いかもしれませんが、少なくとも作品の上ではそう思います。読者のひとりとしては自分の経験だけでこの詩人の作品を読むと誤りを犯しかねません。私などでは想像もつかない敏感さを持った詩人には、特にその詩人の意識に立った読み方が必要だろうと思う次第です。「乳母車のように/棺桶を押してあるく/半ば陶酔した少年」を思い、「彼岸で/交わらない/血が沸騰している」というのはどういうイメージなのかを考えながら読むべきでしょう。そこに死んで生れた≠ニいうイメージがピタリと重なるはずです。
おもしろい、と言ったら語弊がありますが、並の詩人では書けない作品です。
○個人詩誌『思い川』11号 |
2002.3.3 埼玉県鳩ケ谷市 桜庭英子氏発行 非売品 |
ナイトクリーム/桜庭英子
ロンドン土産に頂いたクリームを
肘につけ
踵につけ
仕上げにはかならずハートに一塗りする
お風呂上がりに
乾いて固くなっている所に毎日塗ると
しっとりと柔らかくなります
十日間のロンドンどころか
わたしはずうっと長い長い旅をしているので
あちこちが荒れて固くなってしまい
効能書に期待を込めて夜毎せっせと塗りまくった
春も過ぎ夏も終わりになるころには
気のせいか徐々に潤ってきたようで
きのうまでは許せなかった人の仕打ちや
意地を張りつめてきたことなども
まあいいか と思えてくる
キャンデーのような甘い匂いのクリームは
塩辛い日々の終わりの闇を
やわらかくほぐしてくれたのか
少しは効いてきたのかも知れない
ロンドン帰りのあのひとも
ひそかに塗っているのだろうか
重ねた歳の夜には
悟りという名のクリームを
「仕上げにはかならずハートに一塗りする」というフレーズが生きていますね。「乾いて固くなっている」ハートに塗ると「まあいいか と思えてくる」ようになるとは、うまいつながりだと思います。最後の「悟りという名のクリーム」もうまいオチになっていると言えましょう。
ちょうど風呂上りにこの作品を読んで、ゆったりした気分になりました。クリームこそ塗りませんが、うまいお酒を呑んで、ハートが「気のせいか徐々に潤ってきたよう」な気がします。身体が作品に影響されたのかもしれません。
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