きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.2.16(
)

 娘の学区の「青少年健全育成会講演会」というものを開きました。不健全な私がその副会長というのもおかしな話なんですが、前年度の中学校PTA会長、副会長、会計がスライドするということになっていますから、まあ、いたしかたない。この3月末で解任ですから、それまでの辛抱なんです。
 講演は、日本詩人クラブの仲間の山田隆昭さんにお願いしました。「詩壇の芥川賞=AH氏賞受賞詩人」という肩書をフルに使わさせてもらいました。持つべきものは友、というところですね。演題は「下町の子供たち−詩人から見た都市の地域活動−」。永年、東京・江東区という都会でPTA活動をやってきた山田さんにお話を伺って、山村僻地のわが学区の参考にしようというものです。

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 小さな公民館で、それでも25名ほど集ってくれました。育成会メンバーは20名ほどですから、12〜3名も来てくれればいいなと思っていましたので、その倍の人数に驚いています。メンバーの奥さんも一緒に来てくれたんです。感激しましたね。小中学校の校長先生や教師の皆さん、駐在さんまでいる会ですから、やはりH賞が効いたのかな^_^;
 夜7時からの講演会でしたから、終ったら我が家にお泊りいただいて、育成会メンバーの数人にも来てもらって酒でも呑もうと思っていたんですけど、山田さんは残念ながら明朝の仕事があるということでお帰りになってしまいました。でもまあ、山村ののどかな風景は昼のうちに見てもらえたから、良しとしましょう。山田さん、ありがとうございました。



木村三千子氏詩集『片隅日記』
katasumi nikki
2002.3.1 大阪市北区 編集工房ノア刊 2000円+税

 比べる

犬の美容室帰りの飼い主は
   見てやって 今日は九千円だった
と話しかけてくる
ウチのコは花リボンをつけ
今日は冷えるからとボアの毛布を敷いてもらい
キルティングの可愛い服を着せられて
チャンピオンにも選ばれたという自慢の犬は
黒い大きな目を私に向け
主役の貫禄だ

ペットの霊園からの法要通知には
数年前に老衰死した愛大の名が書かれている
それを見せながらかつての飼い主は
賢かったと思い出話をひとしきり
私は
年の瀬の淋しいお葬式を思い出していた
縁者と関わりを断ってきたその人のお棺は
霊柩車ではなく
座席を倒した乗用車に押し込まれ
すべてをあらわにして
火葬場へ運ばれていった
   本人にはわからない
辛かった

 うちの犬も似たような境遇なので書きにくいのですが、「年の瀬の淋しいお葬式」を想像すると、最終行の「辛かった」がよく理解できます。この作品はこの言葉がすべてで、作者のお人柄まで端的に現していると思います。それに「辛かった」のは「その人」のことでもあるし、前段の「犬の美容室帰りの飼い主」に対してでもあると思えてなりません。「飼い主」まで考えるのは読み過ぎのきらいがありますけど、同じ「飼い主」として見過ごすことができないのです。私も愚かな一員なのだと…。
 詩集タイトルの「片隅」にも注目しています。そういう生き方を選んだ(とは書いてありませんが)詩人の精神が凝縮されたタイトルだと思います。作品全体に「片隅」でそっと世の中を見ているという姿勢が見えて、好感を持つ詩集です。



佐藤彰吾氏詩集『ほのかな灯』
honokana hi
2002.3.20 東京都東村山市
書肆青樹社刊 2000円+税

 都の雪

都にも雪は降った
子供の頃
雪の中に
銃声を聞いた

安藤大尉の父君は
私の中学の英語の先生だった
相当の老齢で
杖をついて居られた

大尉の決行参加が伝わった時
先生は土下座して
あやまられたという
誰に

雪の彼方には
消えがたい吹雪

 この作品を拝見して様々なことを考えさせられました。「決行」とは昭和11年の二・二六事件、「安藤大尉」とは鈴木貫太郎侍従長を襲った安藤輝三大尉と思います。その安藤大尉の「父君」が「私の中学の英語の先生だった」とは! まず、生きた歴史を感じさせられました。そして「先生は土下座して/あやまられた」というフレーズには、その時代の家族のあり方を知らされました。今の時代でも成人した者の罪を親が謝るということはありますが、おそらく生徒の前で土下座して謝るということはないと思います。事件が事件だけに、時代を越えたものがあるのかもしれませんが…。
 事の善悪は別として、天下国家の行く末を案じた青年将校が起した事件を考えると、今の時代にはそんな肝の座った男はいないなと思います。抵抗できない幼子を嬲り殺すような男はワンサといるけど。
 そんな背景を考えながら作品を読んでみると、第1連から研ぎ澄まされた印象を受けます。そして「先生」に対する作者のやわらかい視線も感じます。歴史をグンと手元に引き寄せた作品と思いました。



季刊文芸誌『南方手帖』68号
nanpou techou 68
2002.2.20 高知県吾川郡伊野町
南方荘・坂本稔氏発行 800円

 水面/清岡俊一

水面ではいつも略奪
太陽による水の
風によるささやきの

波紋は知らせる
水面のざわめきを
水面に伝わる
平衡のゆらぎを
水の中の営みの

ある日の鳥の落下
略奪の水面で
充血した水面

水面の眼のなかに
水面の眼のなかに
水面は眼のなかに
記憶する
傷つけられた水のかたちを

 「水面ではいつも略奪」が起きているという視線が新鮮だなと思いました。それも「太陽による」−たぶん蒸発、「風による」−たぶん風紋、という自然現象が水の粒子という観点では「略奪」だと言うのですから、おもしろい視点です。ある意味では逆転の発想なのかもしれません。「鳥の落下」は具体的には翡翠(かわせみ)などを思い浮かべればいいのでしょう。そして「水面の眼」は波紋の中心と考えてみました。それら「傷つけられた水のかたちを」「記憶する」わけですから、水に限らず私たちそのものへの喩ととらえてみました。
 正直なところ、最初は「水面」がたくさん出てきて途惑ったのですが、声に出して読んでみるとリフレインの効果があって、それぞれの「水面」にいろいろな場面の水面を思い浮かべました。その効果もねらっているのかもしれません。「水面」はすいめん≠ニ読めることはもちろん、みなも≠ニも読めるようですが、ここはすいめん≠フ方が良いのだろうと思っています。
 短い作品ですが教えられることが多くありました。



詩誌『樹音』41号
june 41
2002.1.1 奈良県奈良市
樹音詩社・森ちふく氏発行 400円

 森さんの新詩集『命は赤い血の叫び』と「樹音」創刊10周年を祝う会の特集になっていました。お祝いを申し上げます。実はそのお祝いの会に私も誘われていましたが、平日で仕事が休めず出席できませんでした。誌上でご盛会を楽しませていただきました。

 いちにち/越智やすこ

大空は

フィナーレ

あかね色に
染まりながら
カーテンを
おろしていく

  神の御前では
  一日は千年のようであり
  千年は一日のようです

謎ときのようなことばが
心に浮かぶ

千年にあたいする一日なのか
それとも
一日にすぎない千年なのか

私は今日
千年の時間を生きただろうか

人の営みの頭上で
大空は
誤ることのない
一日を
千年のように
ゆったりと
回していく

 最終連が優れていると思います。「回していく」という自動詞が効いていると言えるでしょう。逆に言うと私たちは回されている¢カ在に過ぎないということでしょう。「千年」と「一日」の関係もその観点からとらえてみました。でも、本当に「いちにち」というのは様々ですね。



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