きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.2.24(
)

 直木三十五の墓前祭「南国忌」が横浜・富岡の長昌寺であって、誘われていましたが欠席しました。ちょっと余裕が無くて、時間を作れない状態が続いています。行けば行ったでおもしろいのに違いありませんが、その後の反動が怖い。ジッと耐えて書斎にこもっていました。



詩とエッセイ『千年樹』9号
sennenjyu 9
2002.2.22 長崎県諫早市 岡耕秋氏発行 500円

 きす釣り/小野祐尚

私には二人の娘がいる
長女の夫は銀行員で
外向的で ヒステリー性格者で
ポーズをかまえ 他人の真似をし
時々 怒り出すと
ヒットラーのように 家の中で喚く
感情が発達していないから
芸術ごとは 駄目だが
金儲けは巧く 損することはしない

次女の夫は教師だが
内向的で 同じことを繰り返し考え
詩などを書いているが
透明な 中々良い芸文をあやつり
彼の詩を 電灯に透かして見ると
夏目漱石の「こころ」の主人公のような
死の影が漂っている
とはいっても 心は強いらしくて
生活費を切り詰めて 二冊も詩集を出している

二人の病的性格者は
お互いに 畏れあうらしく 仲は良い

今日も 両家は 孫達も含めて
千里が浜へ きす釣りに行った
初秋の空は晴ねて
海が流れる雲に
その青い色を変えていて
広々とした砂浜に
清々しい 大小のきすが ぬき上げられているだろう

私は彼らに何事もおこらず
幸福であってくれれば 良いのだが
世の賢い人は
それら病者のことを ただ変人とよぶ

 現実の「二人の娘」さんの夫かどうかは別として、対照的な二人の性格をうまく表現していると思います。それに「感情が発達していないから/芸術ごとは 駄目」というフレーズには驚きました。そんなことは思ってもみなかったので、なるほどそういう見方もできるんだな、と納得した次第です。
 最終連も心に残ります。二人の義理の息子への思い、「世の賢い人」の見方が短く凝縮されて、印象を強くしているのではないでしょうか。文学的事実として読者が納得できる作品だと思います



詩誌『はちょう』成号
hachou 2002
2002.2.2 埼玉県川越市
はちょうの会・吉田多雅子氏発行 500円

 浅学にして「成号」の意味が判りませんでした。手元の辞書にあたって、あるいは中国式の数の数え方ででもあるのだろうかと調べましたが、結局判らず仕舞いです。判らないと言えば、この詩誌のほとんどの作品が難しくて判らないことばかりです。一筋縄ではいかない詩誌と言えましょう。
 * 海埜さんから後日届いた葉書では、1号が「プル」号、2号が「トニ」号、3号「ウム」号、4号「合」号、そして「成」号、プルトニウム合成≠ニしたものだそうです。

 炎孔/海埜今日子

瞬時の香り、といっていい日射し。まどうあいだに彼らをのがす。
溶けきった、埋めつくされる足音に、不確かさが脈をおびた。呼
んでいるのだと、陰影が壁をなぞっていたのだと、透けるほどに
引きのばし、晴天へもどしては。別の群れが宿りをさぐる。声で
すらなかったのかもしれない。瞬きが覗き穴に吸われてゆく。

入り口ということばが忘れられ、出口のなさを抱きかかえた。ま
すますのきしみ、までもがたぶん。ざらつく流失が手に残り、鼻
孔にそって誰かがまたぐ。数分の陰りもなく、ほそい明るさを手
わたす扉は、空白よりもなめらかだった。鍵穴が錆びはじめ、他
人の夢に浸食してゆく。

挿し木のような一群れの。みだれた通行が、生息ぎりぎりのとこ
ろをかすめている。夜をどうしようもなく踏んでしまう人びとが
いた。真昼が眼窩にめりこんでしまう人びとがいた。カーテンの
引かれ、払っても。あたためられた土の端は容赦がない。とじる
ことで、彼らの音信が向かっているとどうしていえよう。屹立す
るきぬずれが窓をうつ。くすんだ会話の匂いがした。

踏むことのない記載のなか、白茶けたものが空をよぎった。なつ
かしさが失われ、澱のような仕種がゆきすぎる。瞬きが遮光を重
ねるのなら、すいこまれた無音があってもよかった。笛の音がく
ぐりぬけ、もつれる挿し木の足取りを、部屋のかたえに持ちはこ
ぶ。朽ちたような外壁が、まだらの際になじんでいた。
(以下略)

 例えば海埜さんのこの作品を紹介してみましょう。こんな調子で9連まで続きます。正直なところ私には手に負えません。辛うじて第1連が判るかな、という程度です。その第1連を私なりに解釈してみます。詩は解釈ではないという意見もありますが、ある程度解釈できなければ鑑賞などできるものではないと思うので、やってみます。
 主語は「日射し」。もちろんタイトルの「炎孔」に通じます。「彼ら」とは「日射し」のこと。「日射し」だから「溶けきった、埋めつくされる足音」になってもおかしくないし「不確かさが脈をおび」るのも文意が通じる。「呼/んでいるのだと、陰影が壁をなぞっていたのだと、透けるほどに/引きのば」されるのも「日射し」なら判る。当然「晴天へもど」すこともあるだろう。「別の群れが宿りをさぐる。」はよく判らないけど、「日射し」に対する影、月光などの意か? それが「声で/すらなかったのかもしれない」というのだから、やはり影? 「瞬きが覗き穴に吸われてゆく」のは「別の群れ」のことでしょう。
 結局、「日射し」を主語と考えると、この連はまどろみ≠表現しているように思います。もちろん間違っていると思いますが^_^; 解釈≠ネどせず、そのまま受けとめて鑑賞すればいいのでしょうが、つい、私なりに理解しないと気がすまない。いずれどなたかの丁寧な解説を読みたいものです。



詩誌『AUBE』18号
aube 18
1998.5.1 東京都武蔵野市
鈴木ユリイカ氏発行 500円

 小風景/寒川靖子

陽だまりの縁側で
母が書くAIUEO
わたしがまねるアイウエオ
ローマ字のおさらいをする
障子に光りがはねる

母が書くABCD
わたしがまねるエービーシーディ
英語の基本のおさらいをする
戦争を忘れるひととき

山はみどり
空は青
川は鈍色
わたしは幼なく母は若い

ふるさとのある日の風景
もどらないひとこまのそよぎ

 「戦争を忘れるひととき」というフレーズでドキリとしました。作者の意図はそこにはなく、おそらく最終連にあるのだと思いますが、読者としての私が受けた印象は、英語を禁じられていた戦中に「英語の基本のおさらいをする」母子がいたという一点です。時代に流されることなく、敵国の言葉であっても学ぶべきものは学ぶという母子の姿に救われた思いをしています。「小風景」どころか、現在にも通用する風景だと思います。感動しました。



詩誌『AUBE』29号
aube 29
2001.1.25 東京都武蔵野市
鈴木ユリイカ氏発行 500円

 昔のささぎ豆/松越文雄

固くなったささぎ豆を
昔の真似をして
竹ざるに干した。
今年は品種を変えたのだけれど
またべージュのひと色だった。
私が子供の頃は
豆の色がさまざまだったように思う。

ささぎ豆の粒つぶが
ふくふくと色づいている。
斑(ふ)の入ったものもあり
小さいものもあるが
しっとりと輝いたりする。
そうやって
たくさんの陽を浴びながら
どの色に近づいていくのか。
赤みがかったものは
純粋の赤をめざしているその途中みたいで
なぜかなつかしくなる。
豆のいのちのありようが見たくて
皮をむいてみると
案外にのっぺりしていた。
そうやって庭先でぼーっとしていると
ようやく私に気づいた母が
−食べ物をおもちゃにするな−と
家の中から叱った。

あの頃は
……まだラジオの時代だったが
ささぎ豆にも
たっぷりと物語があったものだ。

 なつかしい時代を感じさせます。「食べ物をおもちゃにするな」と言われたころは確かに「まだラジオの時代」でしたね。ラジオから流れる音だけで物事を想像していましたから「豆のいのちのありようが見たくて/皮をむいてみる」というのは納得できる行為です。好奇心が旺盛な時代、とも言えるかもしれません。「たっぷりと物語があった」時代です。最後の行が生きている作品だと思いました。



詩誌『AUBE』33号
aube 33
2002.1.25 東京都武蔵野市
鈴木ユリイカ氏発行 500円

 風邪ひき夜の独り言 T/鈴木ユリイカ

     *
夜明けについて私は何百万回も書いてきた
夜明けは通り過ぎた
見たこともない魚たちを連れて明るい雲の彼方へ

いつまでもいつまでも私は夜明けを待ち続けていた
夜明けはしずかな舞台のように建物の壁をてらし
俳優は空の上を歩いていた
皆が口を開け 俳優が落ちてこないよう
ロープと支え棒を眺めていた
しかし夜明けの向こう側はなかなか幕があがらなかった

夜明けの向こうにまた夜があるのかも知れない

     **
なんということ、これはペテンだ!
と私は何回も考える
それから 今がいつなのか考える
今は朝三時五十分で もうすぐ夜明けである

夜明けを創る工場よ さぼるな! と私は叫ぶ。
金色が少々足りない。バラ色も。
ひとり目覚める花も。水辺の花も足りたい。
夢みるコジュケイも何もかも足りない。
一世紀も遅れてしまった充足もやさしさも
何もかも足りない。
何より眠りが足りない。
静けさが足りない。

夜明けに水を飲みにやってくるあの美しい動物がいない。
何よりも水がとうとうと流れるやさしい川がない。
青い城がなかなか現れない。
自転車に乗って探しに行こうか?

少々ぼんやりした十八歳の少女がいない。
空や海をつくづく眺める少女
空の重たい闇や海の鈍いとどろきを見ている少女
これから家を捨てる少女
それは私のようだ。
真直立ってオーバーに手をつっこんで寒がっている
私はあのとき夜明けと向かい合っていた

おーい。と私は叫んだ。
おーい、おりておいで。と私は夜明けに呼びかけた。
すると 夜明けはゆっくりおりてきてバラ色の花をひろげ
その輝くばかりの衣で私を包んだ。

すぐ目の前に雲でできた部市が現われ、少女
はすうーとその都市に乗って 地上にいる私
に笑いかけた。
何ということ、こんなに年老いた私を残して
少女は空の奥へしずしずと行ってしまった。

 第1章(*)は文字通り夜明けへの考察、第2章(**)は夜明けからイメージされた青春への挽歌、そんなふうに鑑賞してみました。それらが「風邪ひき夜の独り言」というタイトルに重なってユリイカ詩の世界を形作っていると思います。「少女」は「私」であり、「空の奥へしずしずと行ってしま」う存在であるという二重性が美しいハーモニーを奏でていると思います。その奥にある人間存在の不可思議さまで表出させている作品と言えるでしょう。堪能させていただきました。



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