きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科 |
2002.3.1(金)
日本詩人クラブの理事会が開催されました。私の分担で言うと、3/31発行予定の「詩界通信」9号の内容が承認されたことですね。それ以外としては、永年会員顕彰のために生年月日調査に光明が見えたこと。会員歴20年、年齢80歳で永年会員となるのですが、過去の名簿の整備が悪く、意外に年齢が判らない会員が多いんです。それに対して理事の一員より「あの本を見れば」という助言がありました。これは助かりましたね。ほとんどの会員の年齢がこれで把握できそうです。それでも数人は残りそうですが、数人なら電話で確認できます。50年を越える会の、名簿の電子化を始めて5年近くなりますけど、懸案事項にようやく光が見えました。
○沼津の文化を語る会会報『沼声』261号 |
2002.3.1 静岡県沼津市 望月良夫氏発行 年間購読料5000円 |
轡田隆史さんの連載エッセイ「素粒子の夢」でおもしろい論を拝見しました。テレビの特別番組制作で奈良・東大寺に通いつめていてるときのことだそうです。
<暗い堂内で深沈と輝く仏像や神像を仰ぎ見ながら、「光」と「闇」について考えをめぐらせたりする。輝きは闇のなかでこそほんとうの光を発するのである。
「闇」とは、神が顕現した瞬間を意昧する漢字らしい。「門」は「廟門」のこと。祭祀は夜おこなわれるものである。その門に祝詞を置いて神の訪れを待つのである。やがて神は現れるが姿は見えない。人はただ、何かがそよぐ、かそけき「音」に、それを知る。すなわち「闇」である。>
考えてみると、「門」と「音」から出来ている「闇」は、確かに不思議な文字ですね。そういう謂れがあるとはしりませんでした。説明されると、なるほどと納得してしまいます。改めて漢字の妙を知らされました。
○詩とエッセー『ATORI』50号 |
2002.3.1
栃木県宇都宮市 ATORI詩社・高橋昭行氏発行 800円 |
ある日の午後/神山暁美
「わたし韓国人なの
でも、両親は日本語を話せるわ
どういうことか解るでしょ」
それきり彼女は
卒業するまで口を利かなかったという
国境のない音の世界で
学ぶ楽器は同じなのに国籍がこころを閉ざす
留学して初めて声をかけられた人だったと
テレビ画面のバイオリニストは目を伏せる
「見慣れた胸の名札をはずし
れからは母国名で呼んでほしい
ぼくの両親は日本語が話せないのだから」
あの日 教室に響いた級友の声
私の中におぼろげな色で沈んでいた思い出が
輪郭をもって浮かんでくる
コーヒーカップのミルクは不安定な渦を描く
過去の事実を歴史の襞の中に綴じこんでも
記憶は遺伝子を紡いで明日を織りあげていく
罪は認めないかぎり償えないと
正しい怒りは誤った笑顔を赦そうとしない
愛情だったのか 同情だったのか
曖昧な感情で通りすぎてきた日々が
苦味をともなって甦ってくる
文字もさまざまな文化も
大陸から半島を経て伝えられたこの島国の
ほこり と おごり
似て非なることばの真の意味を
あらためて考えてみている午後
窓辺のベンジャミンの鉢植えが
捻れたまま影を長くしている
考えさせられる作品です。特に「罪は認めないかぎり償えないと/正しい怒りは誤った笑顔を赦そうとしない」というフレーズには、いつも曖昧な私自身を見てしまいます。韓国人の友人は多いけれど、民族としての「罪」をちゃんと「認め」てきたか。「おごり」も知らず知らずにやっているようで、指摘されてハッとする場面が多々あります。いずれも重いテーマです。
行替えの誤り、「」の付け忘れがあったようで、訂正して記載しました。誤植で曖昧≠ェ「曖味」になっていましたので、これも勝手に訂正してあります。
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