きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科 |
2002.3.2(土)
日本詩人クラブの「現代詩研究会」が神楽坂エミールでありました。今回は詩論研究で、記号学会の元会長でもあった森常治さんの「記号論」。なかなか難しい理論のようですが、おもしろかったです。言語と記号、となると出てくるのがコンピュータ言語。例えばC言語とはどういうもの?と私が講師から逆に質問されて、あわてる場面もありました。必死で答えましたけどね。
印象的だったのは「詩言語とはどのような言語か」という設問です。森先生の解説では不安定部分を安定化させる行為が詩作≠ナあって、その結果が詩言語である、というもの。これはなかなか深い言葉ですね。こうやって分析していくことは好きなので、すっかり魅せられました。参加者は30名ほどでしたが、もっと大勢の方に聞いてもらいたかった研究会でした。
○中村洋子氏詩集『もてなしの夜』 |
2002.2.20 東京都新宿区 思潮社刊 2200円+税 |
朝帰り
猫に会った
ピッカピカにひかって
道の真中をあるいてくる
あたらしい傷
おもわず道をゆずっている
まだ 寒い季節に
立派な恋がたきと わたりあい
竜虎のような勝負をしたのかな
右あがりのグラフ好きの上司
すべてに張合う同僚
早朝の会合にいそぐ途中
猫にひとめぼれ
血のにじむ傷跡をなめてやりたい
鋭い爪でえぐられたい
女性の詩集で「朝帰り」という過激なタイトルでしたので、思わず身を乗り出してしまいましたけど「猫」だったんですね。安心しました^_^;
そんな冗談は置くとして、イメージの鮮やかな作品だと思います。猫の姿が目に浮かびます。「右あがりのグラフ好きの上司」という転換もおもしろく、それに対応する最終連もうまい仕上りだと思いました。「鋭い爪でえぐられたい」という最終行も深い意味が読み取れそうです。
詩集の中ではちょっと異質な作品ですが、具体的なイメージに惹かれました。
○詩と評論・隔月刊『漉林』106号 |
2002.4.1 東京都足立区 漉林書房・田川紀久雄氏発行 800円+税 |
殺意/朝吹まりも
おいおい そこらに無責任に吐いて
煙はみんな後ろへ来るんで
たなびく煙を
避けたり くぐったりして
道路はいつだって真っすぐには進めない
吐いたやつは たしかにいて
自分の排泄に気づかない生き物が
いっぱいいてさ らに吐きつづける
避けて歩くが
避けきれなくなると
ふつふつ 湧いてくるのは憤りで
憤りは はっきり「殺意」に近く
もっと近くあるいは「殺意」で
それを本当に教えてやりたいが
じっと我慢して もう
そろそろ事件が起こるころと思っても
起こらないと
自分で起こしてしまう怖れ
におののいて
おもわず行きつけの店に飛び込むと
TVで一人のおとこが
星と横縞の旗を背中に
まくしたてていて
この旗にそむく者はすべて敵だというので
おもわず腰を浮かすと
バッチリ視線が合ってしまって
すかさず腰に手をやり
力ラミテー・ジェーンの格好をすると
むこうのSPが構えたので
ついに ダーン と一発
はっきりと自分の意志で 撃った
とたんにTVが消えて
がっくり椅子に沈むと
きのうまで煙のきらいだった
店主が ブワーッと真正前から 吹きかけ
「ドアホ!」
と どなって
コップの水を頭から 浴びせる
煙草好きにはちょっとキツイ作品です。特に「自分の排泄に気づかない生き物」と言われてしまうと、そこまで嫌煙家は考えているのかと反省しきりです。そして「殺意」を持つことは判りますし「そろそろ事件が起こるころ」という心境も判ります。でも、後半を拝見すると「きのうまで煙のきらいだった/店主が」が煙草を吸っていたりして、そこに安心感を覚えました。作者は本質的にやさしい人のように思いますね。
○詩誌『見せもの小屋』38号 |
2002.4.1 東京都足立区 漉林書房・田川紀久雄氏発行 500円+税 |
オハナさん/田川紀久雄
その猫の名はオハナと呼んでいた
違う場所ではモモとか太郎とかで呼ばれていたらしい
私のアパートに来るようになって二年近くなる
私がオートバイで帰宅すると路地の曲がり角まで迎えに来てくれる
オハナは黒猫であるが
胸の所だけは白である
オハナの来る前には
生んだばかりの子供を三匹つれた猫の面倒を見ていたが
その親子連れの猫は隣の大きな庭のある家にうまいこと住み着いた
その後に来たのがこのオハナである
玄関の入れ口に寝る場所を作って面倒をみていた
アパートの部屋には入れることができないので
隣り近所に気を使いながら飼っていたのである
ここ数週間やや体が弱ってきたなと思っていた
そしてある日突然姿が見えなくなった
朝目覚めるといつも窓を開けて餌をあたえる習慣になっていた
オハナがいなくなると
胸の底に大きな穴が開いたような気がして
寝ても醒めてもオハナの事が気になって
どうしようもない悲しみが湧いてくるのである
窓辺を通る猫を見るとオハナが帰ってきたと思い
すぐ窓を開けるのである
でもオハナの姿は何処にも見えない
電信柱に犬猫捜しのポスターが貼ってあるのを時々見かけるが
あの気持ちがとてもわかる
できることなら私もしたかった
テロや戦争で
ある日突然身内が消えてしまったら
もっと辛い思いで暮らさねばならないだろう
ニューヨークのテロ爆発で行方不明の人たちの写真を
一面に張り出すのも
オハナがいなくなってその気持ちがよく解る
死んだと解るまで決して諦めることはできない
オハナはいまも何処かで生きていると信じたいのである
行方不明になった悲しさを
また報復でくり返すことは
全世界を悲しみの淵に落としいれることになるのです
いのちあるものは
その生涯をまっとうすることに
いのちの意味があるのです
それを近代兵器で殺戮に走るなんて
オハナの変わりになる猫はいないのです
オハナ以外の猫では私の心は癒されることがありません
内田百閧ウんが
猫が消えて泣いた悲しみがやっとわかったのです
世間体などなんでもないのです
悲しいものは悲しいのですから
それもどうしようもなく悲しいのですから
おんおんと大声をあげて泣くしかないのです
私もこころの底から泣いているのです
(二○○一年十一月七日)
ちょっと長くなりましたが全文を紹介しました。日付にご注目ください。この作品が書かれた昨年の11月から、事態が基本的には変っていないことに苛立ちます。「オハナの変わりになる猫はいない」ことに何も変わりはありませんし「また報復でくり返すこと」は終っていません。
「内田百閧ウんが/猫が消えて泣いた悲しみがやっとわかったのです」という作者の謙虚な態度にも胸を打たれます。作者の持ち味である謙虚さが見事に表出した作品だと思います。
○詩とエッセイ『さやえんどう』23号 |
2002.3.1 川崎市多摩区 堀口精一郎氏発行 500円 |
ありの巣/徳丸邦子
ちえちゃんのお父さんは
軍隊で体をこわして
家に帰ってきちゃった
ちえちゃんちに遊びに行くと
着物を着たお父さんを
時々見かけよった
おばあさんがお米作り
お母さんが近所の人の着物を縫うて
六人家族を支えていた
私のゆかたも
ちえちゃんのお母さんに縫うてもろうた
小学二年の頃
ちえちゃんのお父さんは
亡(の)うなった
「うちらあむごいことですよ
あなたあ ええですよね
おじいさんがしっかりしとりなさるけん」
とちえちゃんのお母さんに言われた
私は何か悪いことをしたように
じっと下を向いた
ほいでも 私のお父ちゃんは
私が三つの時
原爆で亡(の)うなったのに
くつ先は
足元のありの巣をこわしとった
うまい作品だと思います。タイトルも最終連も見事に収まっていて、第6連の1字下げも高度なテクニックです。方言も効果的です。何より「私」の悲しみが表出しています。詩の基本的な教科書を見ているような気にさえなってきます。詩の持っている力を信じられる作品と言ったら過言でしょうか。やはり、詩はここへ帰らないといけないのだな、という思いを強く意識させる作品です。
(3月の部屋へ戻る)