きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科 |
2002.3.8(金)
品川に出張した。電車に1時間ほど揺られて、ちょっと疲れた。製品の将来の性能を決定する大事な会議が控えていた。会議までは少し時間がある。もう一度資料に眼を通しておきたい。コーヒーを飲んで、煙草も吸って、高ぶる気持を抑えて会議に臨みたいと思った。
コーヒーを飲むだけだったら一杯180円の店もある。しかし、固いベンチは嫌だ。ゆっくりとソファに座っていたい。何度か訪れたことのある大森駅近くのコーヒー専門店へ入った。ちょうど昼の混雑が終った時間で、私ひとりだけになった。私と同年輩の店主はいないようだ。若い男女がコーヒーカップを洗っていた。ブレンドコーヒーを注文した。
ふと、資料を追う眼の動きが止まった。会話が聞こえてきた。
「このあいだ、ようやくお客さんが空いたと思ったら、ひとりで入ってきた人がいてね」
男が女に話しかけている。
「ええ、それで?」
「注文がブレンド一杯なんだよ。嫌になっちゃったよ」
「そうよね」
私から2mと離れていない場所での会話である。私への当てつけかと思った。いや、そうではないようだ。二人だけの世界での会話なのである。客がひとり居るということは脳の中で認識されていないだけのようだ。悪意はまったく感じられない。
もう一本煙草を吸おうと思っていたがやめて、レジに向った。
「ありがとうございます。450円になります」
女は明るい笑顔で言った。500円玉を出した。(ブレンド一杯で悪かったね)。そう言おうと思ったがやめた。おそらく意味が通じないだろう。
というわけで、大森駅近くの、代表的なコーヒーの銘柄の名を冠した「**」という店には二度と行かないことにしました。ちょっと座り心地が悪くても、180円の店の方がそれなりの教育はやっているようですので…。
○木津川昭夫氏詩集『掌の上の小さい国』 |
2002.1.25 東京都新宿区 思潮社刊 2400円+税 |
棒に振る
朝晩 竹の棒を踏んでいると気分爽快になる
金属の棒は竹や木の棒のように安らぎがない
棒はいつも裸形であり 孤独である
棒と遊ぶと女たちは腰が強くなる
鉄棒で尻上りする児は世界を逆さまに見る
下校の女子高校生は電車の中で棒紅を引く
棒をもつと暴れたくなる男たちがいる
用心棒には暴力が高価な商品である
今日の株式市場は 昼は棒上げ午後は棒下げ
主役は黒船ファンド 片棒を担ぐのは覆面の詐欺師
どの大臣の国会答弁も空洞化した官僚メモの棒読み
円の棒グラフは危険な相場に突っ込んでいる
悪魔の振る指揮棒は骸骨の踊りを呼び覚まし
ラスプーチンは世紀末の尖塔で金属棒を振り回す
棒に乗って世界中を旅する人がいる
外国の裏街を 脚を棒にして母を探す
棒鱈売りが天秤棒を担いで北の国から現われる
棒に縛られ(*)盗み酒をするのは至難の技
詩にとり憑かれて人生を棒に振った男が
あの世の入口に棒を忘れてゆく
*棒縛(ぼうしばり)−狂言。主人が留守中酒を盗み飲みをする太郎冠者と次郎冠者を棒に縛って外出すると、二人は縛られたまま工夫して酒を飲みうたい舞う。
昨年から日本現代詩人会の会長を務める著者の、第12詩集です。「棒」に関してこれだけのものが出てくるとは思いもしませんでした。「棒と遊ぶと女たちは腰が強くなる」というフレーズはちょっとアブナイなと思いますけど…。「詩にとり憑かれて人生を棒に振った男」というフレーズを最終連に持ってくるところなどはさすがですね。「棒」の集大成と言ったところでしょうか。
著者の作風は一瞬ユーモアに溢れ、メルヘンのように見えるのですが、そんなことはありません。「株式市場」にしろ「大臣の国会答弁」にしろ、現実を厳しくとらえています。そのギャップを鑑賞できるのが魅力だと私は思っています。盗みたくなる詩編の多い詩集です。
○篠崎一心氏詩集『砂浜』 大宮詩人会叢書第四期(17) |
2002.2.20 埼玉県さいたま市 大宮詩人会叢書刊行会刊 1300円 |
春
しのびよる気配に
ふと目を覚ました朝
深く閉ざされた海の胎動が
坂を登りつめた教会堂の鐘の音が
ずうっと以前に忍んだ愛が
悪夢のように襲ってきた
----やがて起こる奇跡
つかの間のたわむれと違った躍動が
淡い日差しでほそめた瞳のなかに
眼を閉じて祈る幼子の手のひらに
そっとつかまりにくる
次の瞬間
全てを突き放して飛び立つ雲雀
感情を抑えきれずに咲く桜
刻まれた 時の後始末に
岩を打ち砕く怒溝のように
春は 全てを忘れて
抱きしめにきた
「春は 全てを忘れて/抱きしめにきた」という最終行に惹かれました。第1連との対比が見事です。「感情を抑えきれずに咲く桜」というフレーズも、桜の生態をきちんととらえていて、いい言葉だなと思います。「やがて起こる奇跡」も「春」のすべてを言い表しているのかもしれません。歯切れ良い作風の詩集です。
○詩誌『鳥』38号 |
2002.2.15
京都市右京区 洛西書院・土田英雄氏発行 300円 |
現実/高丸もと子
観客でぎっしり詰まった
スタジアムを見て
時々思う
映しだされた観客は
人間ではなく
単なる粒の集まり
この粒を
ほんのひとつかみ取り出して
とびっきり
大事にしてみたり
意味なく潰してみたり
自由にできる誰かが
どこかにいるのではないかと
たとえば
蟻の巣をつついたり
燃やしたりすることを
遊びでやってしまった時のように
今日もニュースでは
空爆が映しだされ
地下要塞破壊も伝えられている
数で人間を表すことの怖さをこの作品は訴えているように思います。私は化学工学分野の仕事をしていますから誤差≠ニいう考え方を身につけています。100mmの長さは場合によっては100.01mmでも99.99mmでも問題はありません。製品の不良率も0.01%なら1万個のうちの1個ですから、ほとんどの場合は問題ありません。それを時々、冗談で学校の先生に言います。生徒1000人を遠足に連れて行って、ひとりぐらいいなくなっても誤差範囲じゃないの?
数の怖さはここにあるのだろうと思っています。「単なる粒の集まり」という見方です。それが「空爆」なのだと訴えていると思います。数に麻痺した感覚に一撃を与える作品だと思います。
○隔月刊詩誌 『サロン・デ・ポエート』236号 |
2002.2.28 名古屋市南区 中部詩人サロン・佐藤經雄氏発行 300円 |
舗道の一円玉/荒井幸子
誰の不注意で滑り落ちたか落としたか
気がつくと私は舗道の上
目の前は真暗 頭の中は真白
このまま舗道の上で……と思うと
せっかく気づかれても
なんだ一円玉かで終り
もし十円玉だったら
百円玉だったら
千円札だったら……と
終日 そんなことばかり
今年は元日から曇天
そして ついに大雪
躰中が凍てつき
雪の下で縮み上っていました
よく晴れた日の早朝
両手にリードを持つ女をみつけ
力一杯輝いてみました
女は一瞬目をこらし
あゝ一円玉か----と
さて
女は何を思ったのでしょうか
二匹の犬と後ずさってくると
ひょいと私を摘みあげポケットの中へ
どっぷり温もりにつかり
二三日は夢うつっだった私
しかし
何週も何週もポケットの中なのです
「一円玉」の立場になったおもしろい作品ですね。「力一杯輝いてみました」というフレーズなどは「一円玉」の気持をよく現していると思います。そして最終連がいいですね。「しかし/何週も何週もポケットの中なのです」というオチでは思わず笑ってしまい、そしてすぐに哀しくなりました。モノの価値について考えさせられる作品だと思います。
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