きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.3.23(
)

 『山脈』の例会があって、横浜・野毛に行ってきました。参加者はいつもよりちょっと少なくて、7名。でもまあ、大事な話がある例会ではなかったので、少ないながらも楽しんで呑みました。
 それに先駆けて、横浜駅東口の書店「丸善」を覗いてきました。共著『犬にどこまで日本語が理解できるか』が店頭に出ているか見るためです。発売日は3月25日ですが、出版社から東京は3月20日発売、順次地方で発売と聞いていましたから、そろそろあるかなと思った次第です。で、ありました。しかも平積みになっていて、まあまあの待遇でしたね。売れるのかな?



江島その美氏詩集『水郷の唱歌』
suikyou no syouka
2002.3.20 東京都新宿区
土曜美術社出版販売刊 2500円+税

 

多摩川をはさみ
神奈川に兄が東京に弟が住んでいた
週に一、二度
兄は徒歩で弟は自転車で
川を見ながら銭湯へ通った
秋の夕べ
兄はなにげなく湯気でくもる鏡を拭き
その鏡の中で
右肩をやや下げ背を洗う後ろ姿だけを見て
弟----と直感する
名を呼ばれ弟は石けん顔で振り返る
兄は「おお」とひとこと
弟のすべてを受け入れた
家族のまえから突然すがたを消した弟との
三年ぶりの再会
ひとりのおんなを兄弟が愛し
ふたりが故郷を捨てた音信不通のすきまを
黙って背を流しあった
そうして兄は
問わなかったことばの塊のように濡れタオルを丸め
弟は無造作に自転車の籠に掛け
じゃ
なにごともなく別れていった
川に架かる橋の上からはじめて 弟は
兄の住む夕映えの街を美しいとながめた

 この詩集の中では異質な作品なのですが、どうしても惹かれてしまいます。この作品の前に「花」という作品があり、そこでは画家をめざす弟が家出することを、物置小屋で姉に知らせるます。その続きのような作品だと受けとめています。
 最終行の「兄の住む夕映えの街」が「美しいとながめ」る弟の心境描写が見事だと思います。兄と弟という、著者にとっては異性のはずの兄弟の心理を、どうしてこうも鮮やかに読み取れるのか、不思議な気がします。感性の世界では男も女もない、という証左なのかもしれません。一段と世界を広げた詩集だと思いました。



詩誌RIVIERE61号
riviere 61
2002.3.15 大阪府堺市
横田英子氏発行 500円

 仕舞屋の刻/梅崎義晴

ガラス戸に
商店の名前があった
表には
荷車があって
人々が荷を積込んでいる
時がたてば
乳母車と
プラスチックの
小さな野球のバットに
変わり
今は初老の女の人が
ひとり朝の一時を
過ごすだけになっている
仕舞屋の刻
ここに帰ってくる初老の
女の人は
晴れやかである
浮き足だって
楽しげに玄関を開け
なかに入り
明かりが灯れば
多くの人々が
走馬灯のように動きだす
事務をとったり
荷を運び出したり
にぎやかになっていく
初老のその女の人が明かりを
消せば
もとの静けさにもどり
ガラス戸を閉めれば
風が吹き
山の向こうの
息子さんの家の
一室に帰っていく

 この作品に惹かれながらも、恥かしい話ですが「仕舞屋」の正確な意味が判りませんでした。芸者の置屋にしては「ガラス戸に/商店の名前があ」るというのは変だし、「乳母車と/プラスチックの/小さな野球のバットに/変わ」るというのますます変ですから、今に続く歴史の長い小さな商店かなと思いました。でも、どうもしっくりこないので辞書で調べてみました。商売をやめた家。廃業した家。しもたや≠ニありました。これでようやく納得です。それで寂しい感じがあって、そこに私も惹かれたのだと理解しました。
 作者にとって「初老の女の人」は、ある程度素性を知っている人なのかもしれませんね。「山の向こうの/息子さんの家の/一室に帰っていく」という最終行でそれを感じます。あるいはまったくの想像なのかもしれませんが…。この作品からは寂しさと同じにあたたかみも感じますから、おそらく前者だろうと思います。梅崎詩の新しい境地を開く作品のように思えてなりません。


投稿文芸誌『星窓』14号
hoshi mado 14
2002.3.15 大阪市中央区 星湖舎刊 1000円+税

 日本詩人クラブ会友の梅澤鳳舞さんが90句の俳句を掲載しています。俳句は門外漢なのですが、私なりに心に残った作品を紹介してみましょう。

   神様がうふふと笑った桜餅
   白百合やつぼみのときに夢ありき
   炎天が仕事場である潔よさ
   冬うらら名の残らない名職人
   人相もよくなってくる春景色
   暗闇
(くらやみ)で鳥も聞いてる薪能
   水洟や仕事のありて有難き

 一歩退ったところの視点でとらえた作品に秀作が多いように思いました。詩も俳句も基本は同じなのかもしれません。



季刊詩誌『夢ゝ』9号
yume yume 9
2002.4 埼玉県所沢市 書肆夢ゝ発行 200円

 兎は坐っていた/赤木三郎

兎は坐っていた、膝を抱いて。
潮風が ふいていた。

むしられた肌と、陽と。

誰かにとって ここは世界の涯だろう
誰かにとってはここがはじまりの地なのかもしれ
 ない

だが兎は、
記憶されることがないだろう。
(けっして?) けっして

  *

渺茫の机の前にわたしは坐る、兎として。
未来のための傷をわが身にうけとるために、

------(歌う意味をたずね)

ここでは 被爆したものが 死に絶えてすら
核がのこっているだろう時代の 歌をうたう意味
 を

 ああ、因幡の白兎をモチーフにしているんだな、と思いながら拝見していて、「核」が出てきて驚きました。そして「むしられた肌と、陽と。」というフレーズにパーッと舞い戻って行ったのです。鮮烈なイメージでした。
 再び、三度拝見して、この作品の奥にある深い悲しみが伝わってきました。私もまた「兎として」「渺茫の机の前に」座るしかない存在だと思い知らされました。「未来のための傷をわが身にうけとる」ほどの度量が私にあるのか、そんな自問もしています。これほどの短い言葉の中に、人類の罪を語る作品に出会ったことはありません。衝撃を受けています。



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