きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科 |
2002.4.3(水)
午後いっぱいを使って、インストラクターの指導をしました。来週、一泊で社員教育がありますが、そのインストラクターは初体験ですので、事前にシュミレーションをしようというものです。別に私でなくても同じ資格を持っている人は何十人もいるんですけど、どういう訳か私にお鉢が回ってきます。社員教育担当部署の担当者と私が親しいということがあるからかもしれません。あいつ閑だから、と思われているのかもしれませんが^_^;
そんな役割も、もう何度も経験していてウンザリ、というのが正直なところです。でも断ると担当者が可哀想ですし、新任のインストラクターのフレッシュさというのも実は魅力なんです。一流大学の工学部を出た連中ばかりですけど、他人にモノを教えるというのは経験していません。いきなり講義をやったんではインストラクターも可哀想だし、受講生がもっと可哀想、という気持から引き受けています。本当は私自身が講習をやった方が正確で、教育効果も高いと思います。でも、それじゃあ後進が育たない、という意識ですから、下手くそなところはジッと堪えてアドバイスします。まあ、後進が次々と育っていますから、それを喜びとしています。
○詩誌『きょうは詩人』4号 |
2002.3.26
東京都武蔵野市 500円 きょうは詩人の会・鈴木ユリイカ氏発行 |
山笑う/福間明子
まだそこまでは来ていない
けれども
菜の花畑と菜の花畑を結ぶ
一本の鉄橋
炭汁*で黒い川に架かる鉄橋の
上を歩いていた
肺癌ですからましてこのお歳ですから
肺癌は良くなることはないのですから
それでは家族は死ぬのを待ちましょう
泣くこともなく笑うこともない日々で
みんなしてひたすら待ちましょうかね
でも死ぬのを待つなんて何か変ですね
鉄橋を歩いていた
ドキドキしながら歩いていた
汽笛が鳴った
蒸気機関車の音が聞こえた
一日が終わるころあいです
父は一歩死へ近づきました
死は何時終わるのでしょう
家族は祈るベきでしょうか
やすらかに死がおわるのを
疾風のごとく走った
懸命に走り飛んだ
機関車の風圧で体が宙に浮き
菜の花の揺り寵の中にいた
雲雀のさえずりが黄色にまみれて
遠い遠い記憶では
山笑う
そんな頃だった
*掘り出した石炭を川の水で洗っていた
最後の2行がよく効いている作品だと思います。「父」の死を前にした作中人物の心理描写の描き方がすばらしい。心の奥底では「父」の死と同化を願っていたのかもしれません。そこまで読者に読み取らせていると思います。それを「山笑う/そんな頃だった」というフレーズが見事に表現していると言えましょう。
第4連の「死は何時終わるのでしょう」「やすらかに死がおわるのを」というフレーズにも惹かれますね。作者の並々ならぬ言語感覚を感じます。
○詩誌『裳』76号 |
2002.2.28
群馬県前橋市 裳の会・曽根ヨシ氏発行 450円 |
庭の成長 交響曲(十一月)/房内はるみ
力つきて枝からはなれた葉が
よじれ そりかえり
終のかたちになって とんでいく
風がふき
枯れ葉は 枯れ葉をよび
大きくうずまく
ひらく風
とじる風
みだれる風
風はまだ 行きさきをきめていない
「庭の成長」という総タイトルのもとに「静止(十月)」「交響曲(十一月)」「ラスト・ミュージック(十二月)」と3つの作品があり、そのうちの一編を紹介しています。3編にはそれぞれ、もとの詩の倍以上の散文が添付されていますが、それは割愛しました。
「葉」と「風」とがまさに「交響曲」となっているです。特に風について「ひらく風/とじる風」と表現したのは見事だと思います。木枯しを表現するのに「ひらく」「とじる」とは! うまい言い方ですね。それに「終のかたちになって とんでいく」というイメージも新鮮で、「力つきて」という状況をうまく描いているのではないでしょうか。添付された散文は、それはそれとして詩的イメージがありますけど、この短い作品だけでも充分に伝わるでしょう。それだけの力を持った作品と思いました。
○詩誌『あにまる・ラヴ』9号 |
2002.3.31
大阪府茨木市 あにまる・ラヴ舎 笹野裕子氏発行 500円 |
暴動/笹野裕子
「いま日本で一番大切な赤ちゃんがお生まれになりました」
TVの中から、よだれをこぼしそうな男の声が流れる
舞い上がった声が風に乗って、コインロッカーの中の赤ん坊に届く
失った意識をこじ開けて
赤ん坊がひゅーと泣く
路地裏の安アパートのこたつの横で
ジョシコーセーから生まれ落ちたばかりの赤ちゃんが
張り裂けた泣き声で呼応する
日本国中の産院で、生まれたての泣き声が
主張する
その日 生まれなかった赤い塊が
医院のごみ箱で震える
おっさん あんたのよだれ声が
あたしらをおこらせた
赤い塊と
赤ん坊の集団が
ずるずると冬の街を行進する
一番とは何か
と
大切とは何か
と
生まれないもの
生めないものはどうなるか
と
ずるずると行進は
よだれ声の男の
夢の中になだれ込んでいく
男の頭の淵から ひとり ふたり と
夢の中へ飛び込んでいく
泣き声で充満した頭が 破裂するまで
行進は終わらない
きょう一番と呼ばれた赤ん坊が
大切とあがめられた赤ん坊が
一番などと呼ばれたくないと
泣きながら ついてこないかと
時々後ろを振り返りながら
この怒りは判り過ぎるほど判りますね。そのTVは観ていないのですが、本当に「一番大切な赤ちゃんが」と「よだれ声の男」が放送したのなら、とんでもないことです。男の私でもそう思うのですから、産む性の母親たちの怒りはまさに「暴動」に至ってもおかしくありません。そこを変な小細工をせずに表現していて、この場合はこの方が良いと思います。
さらにこの作品の優れている点は「一番などと呼ばれたくないと/泣きながら ついてこないか」というフレーズです。「一番大切な赤ちゃん」には罪のないことですから、そこをちゃんと押えていることはすごいと思います。その意味でもこの作品を高く買いたい。
その日、私は伊豆・下田に向うJRのローカル線に乗っていました。車内放送があって「一番大切な赤ちゃん」の誕生を知らされました。車内は一瞬、おぉーっとどよめきました。「まあ!」「良かったね」という声があちこちから聞こえてきました。でも、それだけだったのです。私は自然発生的に拍手でも起るのではないかと怖れていましたけど、それはありませんでした。車内放送で「一番大切な赤ちゃんが」と言わなかったからでしょうね。
○詩誌『ゴクウ』9号 |
2002.3.10
神奈川県相模原市 ソンゴクウの会・金井雄二氏発行 300円 |
沖縄修学旅行/伊藤芳博
沖縄が危ない
ということで
修学旅行が変更になり
いや大丈夫だろうということで
保護者アンケートとなり
変更しなくてもよいという声が大きくて
また沖縄への準備再開となり
担任である僕の意向など関係ないところで
生徒の命が行き来する
こういう時こそ基地の島沖縄へ
などと小さな声で言ってはみたものの
生徒の命の前には
アメリカに立ち向かうタリバンのようで
勝ち目などない
そんな大切な生徒の命も
保護者の意向の前にはすぐに手放す
僕たち教師には
勝ち負けなどどうでもよい
沖縄への飛行機は空席ばかりが目立ち
生徒は前の座席横の座席と飛び騒ぐ
平和祈念資料館も首里城も走り過ぎ
土産と女を追いかける生徒
の命など僕にはどうでもいい
ムーンビーチの美しい海へ唾を吐く生徒
の命など僕にはどうでもいい
どうでもいい命などない
という正義を前にして
見えてきたのは
僕や僕たちのウロウロばかりだ
アメリカも世界も取りあえず待ってくれ
おいおい
ウロウロ ウロウロ どこへ行くのだ
日本の定時制高校の生徒たちよ
僕たちよ
僕よ
この作品に登場する人物が「僕」も含めて「ウロウロばかり」しているところが可笑しいですね。「どうでもいい命などない/という正義を前にして」対抗しない、対抗できないところが良く表現されています。もちろん「生徒/の命など僕にはどうでもいい」というのは反語でしょう。だから「僕よ」「ウロウロ ウロウロ どこへ行くのだ」と言っているわけです。
同じ作者の散文に「定時制高校の生徒たち」の実態について、次のように述べた個所があります。
<僕の教室で言うならば、授業をしていようが、携帯のカラオケで歌っている奴。プリントを配ろうが、それを下に敷いて牛井を食っている奴。漫画を読んでいるかと思うと、突然「先生、どこかにいい女いない?」と大きな声で話しかけてくる奴。唾を吐くな、吸い殻を棄てるな。ここはおまえらだけが生活しているところじゃないぞ。そんなところに座るなよ、通れないじやないか。一日の授業が終わると僕は一人で教室を掃除するが、「自分だけがいればよい」と思っている連中の去った後はすさまじい。僕が生きているという尊厳とでもいうものがあるとすれば、いつもそいつを抱えて「なめんなよ」とこころの中で言っているのが、僕の現実だ。>
すさまじい現状ですが、それでも「生徒/の命など僕にはどうでもいい」というのは反語だろうと思いたいですね。そう言えば、うちの娘も来週から高校生だなぁ。親よりもマトモだから大丈夫だと思うけど…。
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