きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.4.23(
)

 ビデオキャプチャなるものを始めて使ってみました。会社の仕事でのことです。なーに、こんなものは、とホイホイとセットアップは簡単に出来たんですけど、うまく作動しません。ろくに取説も読まないでやったので、どこかでミスっているのかもしれません。所要時間を1時間ほどしかとらなかったことも敗因だろうと思います。明日は半日かけてやってみるか。侮ってはいけないなあ。



山口敦子氏詩画集『波と子ども』
nami to kodomo
1985.7.25 東京都豊島区 総和社刊 1000円

 副題に「親と子に贈る詩(うた)」とあり、さらに(青ヶ島特集)となっています。日本詩人クラブ会員で、東京板橋で保育園を経営している著者の、1985年の作品です。伊豆諸島の青ヶ島が舞台です。詩画集と言うよりは絵本と読んでもよいかもしれません。しかし、文は立派な詩になっています。絵は青ヶ島中学校の美術科教諭が描いたものです。

 夕焼け

真赤な 夕焼けが、
誰もいない 校舎のイスに
 ドッカリとすわっている。
ガラス窓が キラッキラッキラッ。
 夕暮れに、
真赤な、夕焼けが、
残されて
いつまでも 帰れないでいるようだ。

 「ドッカリとすわっている」「夕焼け」クンが、なんともほほえましい絵が添えられています。「残されて/いつまでも 帰れないでいるようだ」という擬人化も、作品としてはおもしろいんじゃないでしょうか。
 原文の漢字にはルビが振ってあります。保育園児、小学生への配慮でしょう。ここでは割愛しました。



山口敦子氏著
『将来のリーダーは0歳児で決まる』
syourai no reader wa
1993.4.24 東京都新宿区 教育報道社刊 1500円

 「コアラ保育園実践より」という副題にある通り、著者の保育園経営16年の歩みをまとめたものです。歩行器の使い方からミルクの作り方まで、保育のプロの実践報告ですから、これは若い母親には読んでもらいたい本ですね。本の半分は卒園した子の母親の文章で埋っています。自民党から共産党までの区会議員の寄稿もあって、まさに地域ぐるみで保育園を保育≠オているという印象です。
 本のタイトルはちょっと際物めいていますけど、決してそんな内容でありませんでした。子供を観察する中から生れた言葉で、わが子だけは、という排他的なものではありません。詩人という側面も持つ著者の、人生の記録と言ってもいいでしょう。山口敦子という詩人の内面をも知らされた本でした。



山口あつこ氏五十音童謡詩集
『あめんぼにんじゃ』
amenbo ninjya
1995.8.10 東京都板橋区 待望社刊 1200円

 自分の子に童謡を歌ってあげて、尻とりでつなげようと思ってもつながらない。それでは自分で作ってしまえ、とまとめたそうです。「あめんぼにんじゃ」「いもむし」「うすばかげろう」「えほん」「おちばのタンゴ」といった具合です。著者の経営する保育園の先生方がカットを描いて、幾編かには曲も着いて楽譜も載っていました。

 あめんぼにんじゃ

あめんぼさん
あめんぼさん
はかげのしたから
あめんぼさん
だまってでてきて
スイ スイ スイ
きえたりでたりで
にんじゃです

あめんぼさん
あめんぼさん
ひかげでわをかく
あめんぼさん
ちいさなえふでで
クル クル クル
まわるときれいな
おうちです

 タイトルポエムになっている作品ですが、なかなかユニークな見方だと思いますね。忍者であったり、絵筆が回ると家になったりと、保育のプロで、なおかつ詩人という立場でなければ書けない作品のように思います。こんな童謡を聞かせてもらっている保育園児は幸せですね。



個人詩誌『点景』26号
tenkei 26
2002.4 川崎市川崎区
卜部昭二氏発行 非売品

 器の中/ト部昭二

兎 小鳥 山羊など幼少の頃から
好きで飼ってきたけれど
好きというだけでその生態の
実を知らず盲飼育だったから
意想外の早い死に遭遇し泣きじゃくった

もうあんな哀しい思いはごめんと
数十年後の今は小魚を飼っている
それでも少年期の癖と未熟が尾を曳くのか
人の気配を感知しただけで
口を動かし集合してくる彼等を見ると
つい多量に餌を与え過ぎその結果
腹を膨満に導き排便の量で
水の濁りを速めてしまう!

それまで透明な深層で
ゆったり快適に呼吸していた小魚の群れは
腹のふくれと俄の濁りの環境異変で
呼吸が苦しく水面近く上昇余儀なくされ
ぱくぱく喘ぐことになる

餌のやり過ぎ過剰な愛で度々の失敗
その都度家人の苦言
それでも与え過ぎてしまうのは
戦前 戦中 戦後の飢餓の体験の精か
魚たちがぼくの気配を鋭敏に感知し
一斉に口をぱくぱく寄って来られると
もうたまらず飼育の理性が吹っ飛ぶのだ

遠い夢語りになった飢餓の時代
多数の民は豊饒の器の中で飽食に慣れ
多くをまとい多くを排出する中で喘ぎ患い
不透明な器の中の不安に揺らいでいる
わが家の水槽必らずぼくが浄化するが
社会この澱みの器 誰が浄化する

 これは私にも覚えがあります。環境管理の一環として、職場で金魚を飼っています。担当だった先輩が退職して、お鉢が私に回ってきました。5年ほど前のことです。当初は「つい多量に餌を与え過ぎその結果/腹を膨満に導き排便の量で/水の濁りを速めてしまう!」状態で、「哀しい思い」を何度したことか。「実を知らず盲飼育」を恥じて、とりあえず餌袋に書いてある注意書きを読んでみました。なんとそこには5分ほどで食べ終える量を与えること≠ニ書いてあったのです。
 それを忠実に守って、現在では職場の人から「金魚のプロ」と呼ばれています^_^; 確かに、一番好きな仕事≠ノなってますからね。
 ちょっと余談が長くなりました。作品に戻ります。やはりポイントは最終連ですね。特に「社会この澱みの器 誰が浄化する」という問には、なかなか答えられそうにありません。「多数の民」の中で、一番罪深いのは私たち団塊の世代≠ナはないかという負い目もあります。遅れ馳せながら、作者のような先輩の作品を通して勉強していくしか道はないのかもしれません。叱咤を望みます。



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