きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.5.2(
)

 3時間ほど、会議室にこもって議論をして、疲れました。来週、社員研修があるのですが、その教材の打ち合せです。講師に自分の事例を紹介してもらい、受講生にはそれを題材に研修してもらおうというものですから、教材として耐えられるものかどうかの検証です。私が講師を指導するという立場ですが、これはかなりシンドイことなのです。受講生は工学部出身で、入社3〜10年ほどの油が乗り切った連中です。些細なミスも見逃すような連中ではありませんから、細部を詰めておかないと教材としては使えません。
 でもまあ、事例はおもしろいし、受講生にも喜ばれるものになるでしょう。私の担当する研修は、受講生を缶詰にして締め上げるなんてものではありません。各人の経験と知識を大事にして、自由に発想してもらおう、その上でこういう見方もあるけどどうだろう、というものです。工業系のトラブル解決を業務にしている方はご存知かもしれませんね。分析的トラブル解決法と示しておきましょう。シンクタンク会社の事例とともに、当社の実例を教科書に改良して講習を行っています。
 心配すればキリがないけど、やってみるしかありません。講師にも自信を持ってもらい、受講生にも満足してもらえる研修は、議論に議論を重ねた教科書作りをするしかないと思います。多少のミスは大目に見ていかないと人は育たない。議論でやっつけることが目的ではなくて、有能な社員になってもらうのが目的ですから、そこを私も講師も踏み外さないようにしないと、と思っています。



田川紀久雄氏詩集
『翔び立つ日を夢見ながら』
tobitatsu hi wo yumeminagara
2002.5.20 東京都足立区 漉林書房刊 1500円+税

 

生きることは自分の骨を燃やしていく作業なのです
骨の中には生命の焔が赤々と燃えているのです
「ホラホラ、これが僕の骨だ」と言った中原中也さんは
自分の生命の焔を見つづけていたのです
憧憬という薪を燃やして
燃えつき果てたときに
「骨はしらじらとんがつてゐる。」と言ったのです

なぜ死んだ人間の骨を骨壺にいれてしまうのだろう
もう二度と燃え上がることのない骨を
それならば海にでも山にでも撒いた方がいいはずです
骨壺だけには入れないでください
人魂を恐れるのも
それなりの意味があるからです
ただ恐いというだけではないので
二度と燃えることのない骨が燃えることに人は恐れるのです

生きている間は骨にお面をかけて
娑婆で遊んでいるのです
お画が剥がれてしまえば
あとはこの世からおさらばするだけなのです
人に見られないように
こっそりと骨になりたいものですね
 
*「 」の中の詩は、中原中也の「骨」より
 (一九九八年十二月五日)

 中原中也の「骨」も素晴らしい詩ですが、それを素材としたこの作品の佳作だと思います。なぜ「人魂を恐れるの」か。それは「二度と燃えることのない骨が燃える」からだ、という著者の思考に共感します。そして「生きている間は骨にお面をかけて」いるにすぎないという見方にも共鳴するものがありますね。
 肉体が滅んでも骨だけは残っていることを題材にした赤瀬川原平の小説がありましたが、それを思い出しながら拝見しました。本当に、いつかは「こっそりと骨になりたいものですね」。


隔月刊・詩と評論『漉林』107号
rokurin 107
2002.6.1 東京都足立区
漉林書房・田川紀久雄氏発行 800円+税

 私たちのオレンジ/真神 博

日の光を浴びて
私の身体は私の心と異なってしまった
人に対して命令形で射して来る
光を見ることは
何かとても難しい本を読んでいるみたいだ

日差しの中を通りかかった人間は
受胎という事故を起こし
自分が個人であることを告白してしまう

風が吹いていると言っても
直接何かが吹いているわけではない
厳選された空間で
扉などないのに何かを開けて入ってきた
少女は春のアクセルを踏む
そして
空に高鳴る
私たちのオレンジ

 解釈≠キることは「何かとても難しい」気がするのですが、なぜか惹かれます。「オレンジ」の成長と「人間」の姿がうまく重なり合っているからかな、と思います。フレーズもおもしろくて、「人に対して命令形で射して来る/光を見ることは/何かとても難しい本を読んでいるみたいだ」など、いろいろな場面に当て嵌まるように思えて、考えしまいます。「受胎という事故」、「少女は春のアクセルを踏む」などのフレーズも光っていますね。
 詩は解釈≠ェある程度は必要だと思っていますが、それですべて判ってしまったら詩ではないのかもしれません。よく判らないけど、心の残る部分、そういうものがある方が作品としては成功しているのかもしれません。この作品はまさにその部類に入る佳作だと思うのです。



詩誌『帆翔』26号
hansyou 26
2002.4.25 東京都小平市
帆翔の会・岩井昭児氏発行 非売品

 結露の風景/坂本絢世

結露するのは
窓ガラスだけではなかった
私の内側の
透明であったはずの部分が
荒々しい水滴で曇っている
指でなぞりたくても指先から遠く
茫として量れないもどかしい固まりが
結露する風景の向こう側で
身悶えしている
真っさらな夜明けの光に晒されて
今求めているものが何ひとつ無いことに気ずき
そのことに怯える
折りたたまれた
襞のような雲間から
私を射抜くような
鋭い陽光の視線
結露が
いく筋もの涙のように流れて
私の肺腑に堆積してゆく。

 「私の内側の/透明であったはずの部分」、それが結露していくという哀しみ。「今求めているものが何ひとつ無いことに気ず」た怯え。作者の繊細な精神を感じさせる作品です。「真っさらな夜明けの光」さえ「私を射抜くよう」であると作者が感じるとき、結露は作者の「肺腑に堆積してゆく」ことになります。なにを作者がそこまで深く受け止めているのかは不明ですが、同じような思いは誰にでもあることで、そこに私も共感しました。
 しかし反面、作者の冷静な視線も感じます。「結露する風景」として、それらをとらえていることに冷静さを感じるのは的違いかもしれません。「襞のような雲間」という観察眼にも冷静さを感じているのですが、どんなものでしょうか。



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