きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.5.4(
)

 「第9回まほろばポエトリーステージ」というのが群馬県榛東村の現代詩資料館「榛名まほろば」であって、行ってきました。講演は清水哲男氏の「詩と年齢」。人間の成熟と詩、という観点の講演でした。清水さん自身は年齢にこだわって詩作してきたそうで、そういう詩人は意外と多いのではないか、それはどうしてなんだろう、という話の進め方で、割とおもしろかったですよ。

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講演する清水哲男氏

 以前は日本人の寿命も短かったので、20歳というのはまさに大人で、50、60歳というのは死を目前にした老人であった。でも今は違う。20歳で成人式をやるのは間違いではないか。30歳を成人としてもいいぐらいではないか。それはなぜだろう。社会そのものが人間を成熟させないシステムになっているのではないか。それはなぜだろう。時の政権の愚民化政策ではないか。(村山意訳)
 清水さん自身が年齢にこだわっているのは、早生れがコンプレックスとしてあるから、ということでした。これは意外にそう思っている人が多いんですね、会場からも賛同の声がありました。私は7月生れなんでそんな意識はなかったんですけど、言われてみれば判る気がします。特に小学生の時は、同じ学年で丸1年の差があるわけですから…。清水哲男という詩人の原点のひとつを見た気がしました。
 私個人の収穫としては、懇親会で詩集『フルーツ村の夕ぐれ』の著者・房内はるみさんと、詩誌『銀猫』の池田瑞輝さんにお会いできたことです。品の良い女性がいるなと思っていたら、それが房内さんでした。ずいぶん若い男が来ているものだなと思ったら、それは池田さんでした。私だけ生ビールを呑んで、お二人は素面でしたから、言い放しになってしまって、嫌われたかもしれません^_^;



佐古祐二氏詩集vieの焔』
vie no homura
2001.7.15 京都府長岡京市 竹林館刊 2000円+税

 かぎゅう
 蝸牛

六月の太陽のひかりをはじく
ぬれたやわらかなからだ、
ひかりを背に
渦巻きが透きとおって あたたかい。

ゆっくりと
力満ちて進む、
二本のつのを
思いっきり未来に伸ばして。

おまえは
いのちさながら動いている、
おんなのからだのまんなかのように
しなやかにぬれて。

 この作品はいいな、命と性のすべてを言い表しているなと思いました。そんな思いで詩集を読み進めると、解説で柴田三吉さんが次のように書いていました。

 <詩集を繰ってもらえば、すぐに読むことができるのに、私はこの作品を、どうしても書き写してみたかった。よい詩とはそういうものだろう。
 わずか十二行であるが、この作品の中には、佐古さんの思想のすべてが込められているように思う。不安や愛、希望といったものが、一匹の蝸牛に姿を変えて、光の中を歩いている。ことに最後の二行は美しい。ぬれているのは、性によって潤いを得た、佐古さんの育てた生であり、死なのである。 (柴田三吉解説「要約できない生を」部分)>

 作品のすばらしさもさることながら、この解説もいいですね。これ以上、私がくだらない紹介をする必要はなさそうです。こんな解説を書いてもらえたら、詩人としては本望でしょう。
 作品の背景は説明しておきます。著者は腎不全で腎移植をしたが、それも摘出せざるをえなくなり、現在は血液透析を続けている弁護士だそうです。病気も職業も作品とは関係がない、という意見もありますが、私はそうは思いません。作者の置かれている立場に近づくことが良い読書法のひとつだと思っています。



隔月刊詩誌『サロン・デ・ポエート』237号
salon des poetes 237
2002.4.28 名古屋市名東区 滝澤和枝氏発行 300円

 老景/野田和子

なまぐさい風。
遠くでウミネコの鳴き声がする。

フジツボが、
心の壁を凝固
(かた)めている。
生き辛さの息匂う。

いつ、くぐってしまったのか?
靄と霞でできている
混濁の門。

牛はじっと動かず、
目をとじて反芻している。
いちばん輝いていた時代
(とき)を。

人間の誇りというものの
あてどなさ。
風の中の線香の煙のゆくえ。

何があっても、
今を生きるしかない。
生命力
(いのち)の埋み火。

 タイトル通りの「老景」の作品ですが、最終連ではそれに抗う精神を感じます。それがこの作品の強さだろうと思います。私も50歳を過ぎて、少しはこの作品の意図するところが判るような気になっています。まだ「老景」にはちょっと間があるかもしれませんが、「いつ、くぐってしまったのか?」という問に答えられませんし、「人間の誇りというものの/あてどなさ。」も感じています。それで余計に最終連に励まされているのだろうと思います。一定の年齢に達しなければ理解できない、書き得ない作品だろうと思いました。



詩誌『掌』124号
te 124
2002.5.1 横浜市青葉区
掌詩人グループ・志崎純氏発行 非売品

 蛾/石川 敦

人が嫌う虫である

蛾には正の反応があり
光を目指し飛んでいく
人も似たようなもので
富や名声が目の前に見えると
突き進んで行く
違うのは
蛾は勢い余って
明かりのない所ヘ行くと
戻ってくる修正能力があるが
人の場合 道から外れると
闇の中を彷徨い続ける点と
蛾は争うことなく
協調性があって群がれるが
人は自分だけでいいと
他人を蹴落とせる点だ

これらが
嫌われる理由だろう
誘蛾灯は
五分の魂を見せつけられる前に
一匹ずつ 着いた瞬間に
殺そうとしている

 人と蛾をうまく対比させた作品だと思います。「蛾には正の反応があり」「明かりのない所ヘ行くと/戻ってくる修正能力がある」というのは作者の観察でしょうが、鋭い視線だな感じますますね。それに比べて人間の「他人を蹴落とせる点」という認識には耳が痛い思いをします。それにしても「着いた瞬間に/殺そうとしている」という指摘は、何か人間の本質を言い当てているようで怖いほどです。「嫌う」ということについても考えさせられた作品でした。



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