きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.5.8(
)

 社員教育で小田原の研修施設に行っていました。工場現場の技術者向けの研修で、計4日間コースのうちの3日目です。2日目まではシンクタンクから供給されている教科書に拠っていましたけど、今日から弊社での実例。私はもう500件ほどの実例に接していますが、何回やってもおもしろいものだと思います。
 インストラクターが工場でのトラブル実例を持ってきて、受講者が与えられた情報をもとに原因究明をするというものです。結論の出ている事例をペーパー上で再現して、理詰めで原因を考えるわけですけど、事例のおもしろさもさることながら、受講生の思考プロセスがわかるというのが私にとっては魅力です。人間の陥りやすい罠、思考の堂々巡りにどうしてハマるか等々、興味津々なんです。
 来月はいよいよ受講生が実例を持ってきます。研修の成果を知ることができる上に、またおもしろい事例に出会えるかと思うと、今からワクワクしています。



詩歌文藝誌GANYMEDE24号
ganymede 24
2002.4.1 東京都練馬区 銅林社刊 2100円

 真夜中のエノコログサ/宗 美津子

昼間のざわついた心のまま
眠れない真夜中
起きだして
公園の見える窓辺に立つと
音もない黒の静寂の中に
水銀灯のスポットライトに当てられて
不寝番のように
白くゆれているエノコログサの群れ
ときどき合図のような動きをする
首をのばして静止する姿
異界の使者のような仄かさ
  父だろうか  母だろうか
見えないものに守られていると感ずるときがある
苦境のときにも守ってくれていると感ずるときがある
ふと感謝の気持ちが湧いてくる
思わず会釈して窓を離れる
穂先の動きが
心の中でしばらく
影をひく
目を閉じて
エノコログサの白い影を迫いまわす
自分の心を追いまわす
エノコログサがすこしづつ畳まれてゆく

 私は植物に疎くて「エノコログサ」というのがわかりませんでした。辞書で調べると「狗児草、ねこじゃらし」とあります。狗児は犬の子の意。「ねこじゃらし」でイメージが掴めました。「ときどき合図のような動きをする」というのも理解できるようになりました。そして、それが「異界の使者のような仄かさ」であるということも、ようやく眼に浮かぶようになった次第です。
 「昼間のざわついた心のまま」という最初のフレーズは、それを調べる前から惹かれた表現です。「思わず会釈して窓を離れる」も同様ですが、辞書で調べてからはもっと理解が深まったような気がします。「エノコログサ」も「会釈」しているのだと気付きました。作品の良さをより深くわかった、と言ってもよいでしょう。
 作品を鑑賞するのにわざわざ辞書を引く必要があるのか、ということは議論の余地があるかもしれません。でも今回は、私にとっては必要なことでした。



詩誌『餐』24号
san 24
2002.5.10 埼玉県所沢市
山根研一氏発行 450円

 同時多発テロ写本/上野菊江

 ◆裏で

裏で糸をひいている者が
と いわなければ恰好がつかない

CIAだ KGBだ 果ては
フリーメーソンだ イルミナティだと

ありそうもない犯人探しをしたものだが
オサマ・ビンラディン氏
今回 このひとだけは
真犯人に間違いないと究極の逆上

実は米ドルには 呪いがかけられていて
神の手が歴史を変える とか

イエスが十字架上で死んだのは真っ赤な嘘で
磔になったのは替え玉だったとか

神は立場を変えると悪魔になる
Aにとって神である存在が
敵であるBにとっては悪魔であるだろう

黒魔術師は洞窟ふかく潜み
テロがテロを呼び込むよう時を操り
聖なる笑顔を溶かして いる?

 「同時多発テロ写本」という総タイトルのもとに4編の作品が収められています。紹介した詩はその最初の作品です。まさに「裏で」なにが行われているか、そこに注目しているのが新鮮な印象を与える作品だと思います。同時多発テロに関する作品が多いなかで、こういう視点はあまりなかったと言えましょう。
 言葉としては「究極の逆上」はおもしろいし、「神は立場を変えると悪魔になる」というフレーズには衝撃を受けました。普段、神は神としてあるものと思い勝ちですけど、立場を変えると正反対になってしまうんですね。こういう視点が大事だと教わった気がします。視点の多様性を示すことも詩人の仕事なのかもしれません。



詩誌『布』15号
nino 15
2002.4.30 千葉市花見川区
先田督裕氏他発行 100円

 表紙におもしろいことが書いてありました。

 たての詩(言葉や表現に重点を置いたと思われるもの)
 よこの詩(内容や気持ちに重点を置いたと思われるもの)
 一枚の詩(たて、よこ、両方が助け合ってひとつの世界を創りあげているもの)
 詩をこんなふうに簡単に言い切れることはできないのを知りつつ、
 それでも同人が求めるものは一枚の詩であると思われます

 『布』という詩誌名を考えると含蓄のある言葉だなと思いました。さて、今号で紹介したい作品はベトナムの詩です。

 農耕民族の詩

私が出かけたとき 稲はまだ幼穂の文化期だった
いまは 赤黄色に実っている
私が出かけたとき あなたはまだ娘だった
いま あなたは子供たちに囲まれている
ひとりを抱き ひとりを背負い
ひとりを足にすがらせ ひとりの手を引いている

 これはヴエトナムで見つけた写真集「わが祖国」のなかの写真に添えられた詩。民謡なのか、写真家グエン・マン.ダンの詩なのかわからないが、農村の貧しさゆえに出稼ぎに行かざるをえなかった男の詩なのだろう。ヴエトナム語から英語に訳されているこの詩、訳すのに「幼穂の文化期」はちょっと苦労したところ。原語では「稲は割れていなかった」とある。稲は「幼苗分けつ期」を過ぎると「幼穂文化期」という生殖成長期に入る。ひとつの花のなかで雌しべと雄しべが育ち、穂が葉鞘のそとに出ると、まもなく雌しべの柱頭が左右に開いて、受精するのだという。農耕民族は稲のこうした生育相を知り尽くしていて、少女が母になることと、稲の実りをみごとに重ねたのだろう。豊かな実りを祝福する歌に、哀愁がまつわる、農耕民族の男歌だ。父と娘、兄と妹と読むこともできるけれど、その場含哀愁は消えてしまう。(太原)

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 翻訳者の太原さんの言葉も紹介しましたから、これ以上つけ加えることはありませんが、原詩とともに訳者の言葉も見事だと思います。特に「その場含哀愁は消えてしまう」という指摘は傾聴に値します。こういう視点は私も学ばなければいけないなと思った次第です。
 表紙の言葉といい、この翻訳といい、小人数の小さな詩誌ですが高レベルの同人誌と言えるでしょう。



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