きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.5.10(
)

 日本詩人クラブの理事会がありました。主議題は明日の総会準備です。2001年度の事業報告、決算報告の検証をしましたが特に問題はなさそうです。2002年度の事業計画、予算も問題なく通るでしょう。規約の一部改正を提案しますけど、これも当り前のことでしょうから大丈夫のはず。それほど難しい組織ではありませんから、普通のことをやっていれば問題はないはずだと個人的には思っています。それでも総会というのは会員の最高意思決定機関ですから、執行部側としては緊張するものなんですね。一会員として参加していたときはそれほど感じていませんでしたけど、立場が変ると感じ方も違ってくるようです。
 明日の総会が終ると、残された任期はあと1年ということになります。現在、2期4年間の途中ですから4分の3を過ぎようとしています。やはり4年は長いな、というのが正直な気持です。詩人クラブは連続2期しか役員任期を認めていませんから、まだ楽なのかもしれません。他の組織では無期限というところもあるようで、そういうところの役員さんは本当に大変だろうなと思いますね。
 残された1年の任期、がんばります!



季刊文芸誌『南方手帖』69号
nanpou techo 69
2002.5.10 高知県吾川郡伊野町
南方荘・坂本稔氏発行 800円

 花はどこへ行った(注)/玉井哲夫

人が生まれるずっと前から
花は咲いていた
何のために
花は咲き続けるのだろう

人が殺し合うずっと前から
花は咲いていた
人がそうすることを
知っていたかのように

人はいつから
花を摘むようになったのだろう
死者の魂と
わが心を慰めるために

人はなぜ最もか弱いものを
銃口の前に捧げるのだろう
そこに生きることの
どんな意味を見ようというのだろう

花が焦土に最初に根づくのは
死者を代弁するためなのか
生者の足元に咲いているものの声を
誰が聞くというのだろう

花が咲くことによって
誰が傷つくというのだろう
花を傷つけることは
たやすいというのに

花はいつまで
人に摘まれて地上にまかれるのだろう
人はいつまで
花はどこへ行ったと歌うのだろう

 (注)ピート・シーガー作詞作曲の「花はどこへ行った」という歌に触発されて書きました。

 確か1970年代の初め頃に、PPMというグループが歌っていたと思います。英語の歌詞がおぼろげに浮かんできました。どんな歌詞だったかなと思っていると、作品の下にちゃんと載っていました。

   Where have all flowers gone?
   When will we ever learn?

 このイメージで書かれた詩ということですが、作者独自のものになっていると思います。特に「人はいつまで/花はどこへ行ったと歌うのだろう」という最終行はいいですね。「花が焦土に最初に根づくのは/死者を代弁するためなのか」というフレーズも意味が深いと思います。なつかしいメロディーとともに、この30年、何が変ったのだろうと考えさせられた作品でした。



個人誌Moderato17号
moderate 17
2002.5.25 和歌山県和歌山市
岡崎葉氏発行 年間購読料1000円

 幸せの角度/岡崎 葉

病室の誰かが
「夜の街がきれい……」というので
起き上がって 夜景を見た
南西の方角にある海は
昼間に溜めた陽も冷めて
暗闇の中をさ迷っているのだろうか
手術後の傷口の痛みに苦しがった
一晩のわたしのさ迷いのように

小さな住宅から見る
病院の灯りはいつも温かく安らいで
夜になれば幸せに見守られているような気がした
いまは建物の中にいて
遠くの方まで見守っているのだ

闇が一層深いあの山の
閉鎖された展望台の真下には
鳥の鳴き声を聞きながら過ごした
静かな生活もあった

いまが不幸せというのではなく
日々 塞がってゆく傷口の確かさが
幸せの角度を変えて
生きる充実感をわたし自身に漲らせている

 見る角度によって幸せも違うという「幸せの角度」というタイトルがいいですね。「日々 塞がってゆく傷口の確かさ」を幸せと感じる作者の謙虚さにも共感を覚えます。手術をしたというのですから、大変な思いをしたのでしょう。その思いを越えて「生きる充実感を」「漲らせている」ことに敬服した作品でした。



田中浩司氏詩集『詩人』
2002.1.10 仙台市若林区 創栄出版刊 非売品

 血のモカ

中央線の車両の中で
頭が空洞になっている
煙が頭の中をぼーと
浮いたり沈んだりしている
たまに紙コップのモカを口にするが
口の中が血でいっぱいだ
愛するものは何もない
愛されることは
とくにいい
マイナスの夜
甲府に着くと
死にたくなる

 「マイナスの夜」というフレーズに惹かれました。「頭が空洞にな」り、「たまに紙コップのモカを口にするが/口の中が血でいっぱい」になること、「愛するものは何もない」ことがマイナスのイメージなのだろうと考えています。それは何に起因するのでしょうか。おそらく感受性の鋭い著者には、この世そのものが「何もない」ものなのかもしれません。だから「死にたくなる」のだろうと想像しています。
 著者のそういう心境を思い描くとき、私には言葉もありませんが、救われた思いのする個所があります。「甲府」という地名です。作品の中では否定的な意味で使われていますけれど、そうではないだろうと考えられるのです。本当に嫌なら、その地名を出すことさえ拒否してしまうのではないでしょうか。そうなってはいないと読み取れます。従って、著者の拠って立つ場所は「甲府」だと思います。
 著者とはお会いしたこともなく、初めて拝見した詩集ですのに出過ぎたことを書いてしまいました。失礼はお詫びします。



   back(5月の部屋へ戻る)

   
home