きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.5.11(
)

 日本詩人クラブの第53回総会が開催されました。神楽坂エミールに70名ほどの会員が集って、事業・決算報告、事業計画・予算などすべて原案通り可決されました。私は広報担当理事としての報告を行いました。特に異議もなく、平穏に執行部案が通って安堵しています。何年か前、私が議長の時に、執行部案の一部が否決されて大変な思いをしたことがありましたから、この「原案通り」という意味の強さを改めて思う次第です。

020511

 写真はこの1年で新会員となった方です。この1年で51名の会員、5名の会友を迎えました。なかには、入会以来1度欠席しただけで、あとはすべての例会に出席しているという方もいらっしゃって、心強い思いをしましたね。そういう方に日本詩人クラブは支えられているのだと思います。
 私の残された任期はあと1年。来年5月の総会が終ると任務終了です。力不足は否めませんが、それまで会員・会友の皆様の期待に応えられるようがんばります。



詩誌『杭』38号
kui 38
2002.5.1 埼玉県さいたま市
杭詩文会・廣瀧光氏発行 500円

 こぎん刺し/尾崎花苑

藍の山膚に 白い
木綿糸
初雪は
お岩木山の頂きから
山道を走りぬけ
りんご畑を刺し始める
山は閉じられて入れない
春になるまで
炉の灯りに目を拾う
夜なベ仕事
針を刺す女たち

菱形を重ねた紋様
「ソロバン」「猫のマナグ」
縫いつける糸目は
魔よけ
男たちがヘビにかまれんよう
山で腹こわさんように
地吹雪が
ちよペっとでもしのげたら
いのりの結晶

しゃし
奢侈禁止令
木綿を禁じられた農民の
麻の着物
重ねても 重ねても
防げぬ津軽の冬
粗い布目のすき間を
一針 一針
埋めていく

五歳になると「五つ豆コ」
刺しかたを
七歳 「七つ豆コ」を習う
母から娘に
嫁にいくまで
二枚がやっと

野良の昼
かまどでまんまたきながら
じょっぱり女の
手仕事

お山の道が開けられた
どこさいぐか
分がんない風たちが
雪どけたリンゴの枝に
白い
花の刺し目を縫いつけていぐ
どさの畑にも
ぎっしりと

 「お岩木山の頂きから」「白い/木綿糸」が「刺し始める」光景と、「粗い布目のすき間を/一針 一針/埋めていく」「じょっぱり女の」姿が見事に「こぎん刺し」として調和した作品だと思います。「男たちがヘビにかまれんよう/山で腹こわさんように/地吹雪が/ちよペっとでもしのげたら」というフレーズでは、女たちの思いを痛烈に感じます。
 最終連の津軽弁も優れた効果を生み出していると思います。時代は江戸の頃でしょうか。でも「お岩木山」も変っていないし、津軽の人の心も変っていないように思えます。一本、筋が通ったものを感じさせる作品と言えましょう。



詩誌『燦α』15号
san alpha 15
2002.6.16 埼玉県さいたま市
燦詩文会・二瓶徹氏発行 非売品

 手/紺

(母に手を引かれて歩いていた幼い「私」は
母になにかを言いたかった でも
母の耳ははるかうえにあり
声が届かない気がして
またうつむいて 光るアスファルトを見ていた
おかっぱが揺れていたんだろう、
母が手を ぎゅっと 握った)

    *

夕飯の買い物に行く途中
君が手をつないでくる
やわらかくしめった
もちもちの手で

うつむいて道を調べながら歩く
君の ぼんのくぼを見て思う
未来を

何年かすると この手は
さらさらと冷たい
少年の手に変わっているのだろう
その時々で君の成長は嬉しいよ
でもほら 空のうえ
未来から時を超えてきた「私」が
君を見つけて
懐かしさに胸を しめつけられている
もう おばあちゃんになってしまった
「私」が

君も その頃
お父さんになっているだろうか
そして我が子の
ちいさな もちもちの手が
いとおしくって
いつまでも いつまでも
にぎっていたいと思うのだろうか

そうして
しわくちゃになった
「私」の手は

かさ、こそ、と
いとしいものたちに
小さくサヨナラを
告げるのか

 第1連を( )でくくり、*で区切りをつけるのは、技巧的に優れていると思います。手も「もちもち」「さらさら」「かさ、こそ、」と変容していて、「私」も「君」も変容し、かなり入り組んだ構成をとって、技巧のうまい詩人だなと思います。「母の耳ははるかうえにあり」というフレーズには、作者の視線の確かさを感じます。
 誕生から死、そして血筋が繋がっていく様子が背景にあって、作者の人生観が垣間見える作品でもあります。「紺」さんとはハンドルネームで、新同人だそうです。力のある詩人の入会で『燦α』もより発展するのではないでしょうか。



詩誌『人間』138号
ningen 138
2002.6.1 奈良県奈良市
鬼仙洞盧山・中村光行氏発行 1500円

 私の村/平井英則

昨日と同じ色の空と風景の日常を
めくるように村の一日が開けていく
預かった物は預かったままに
引き継いだ物は引き継いだままの姿で
明日につないでいく忍耐が埋まった村に
ほっこりとした平和が漂っている

長期療養中の老婆が亡くなって
いっとき喪服の人が往来し
お香の匂いが曲がり角に上ったがいつか消えて
青い空が戻った

あそこのご主人が退職されたそうな
隣の娘さんの縁談がととのったそうな
荒物屋の息子を見かけないがどうしているのやら
新しい路がつくそうな
測量が終えたら買い上げが始まるらしい
学校行きが怪我せんように申し入れせにゃならん
有象無象がちろちろ燃え村が動いている

手のひらを赤くして結んだ握り飯の様な
暖かくて塩昧の利いた何の変哲もない村の暮らしが
戦で熱くなった地球の咳の飛沫のような村が
時代のけばけばしい投射の中に
噛み合わず回り続ける歴史の喧噪の中に
健気に浮いている
私の村の
心地よい重さよ

 まず、最終連の「私の村の/心地よい重さよ」というフレーズに惹かれました。私も田舎暮しですから、この機微はよく分かるつもりです。心地よいけど、やっぱり重いんですね。でも心地よさの方に重心が移って、離れられない。うまい表現で、私の言いたかったことをスバリと言ってもらえたようです。
 「ほっこりとした平和」「手のひらを赤くして結んだ握り飯の様な」「暖かくて塩昧の利いた」「戦で熱くなった地球の咳の飛沫のような」など、村に対する形容も素晴らしいと思いました。構成といい形容といい、ずいぶんと教えられることの多い作品でした。



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