きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.5.18(
)

 私が居住する地域の「青少年健全育成会」の総会が開催されました。青少年補導員や指導員、自治会長、小・中学校長、小・中学校PTA会長、果ては駐在所のお巡りさんまで加わっている会です。この総会で副会長という私の任期も終了ですから、張り切って出掛けました ^_^;
 総会は総て執行部原案通り可決。この1年間も地域での非行事件などは無く、いろいろな地域の役員をやった中では最も軽い仕事だったなと改めて思いましたね。それでも内心は、私の任期中に事件・事故が起きないようにとは願っていたのです。穏やかな地域とは云え、近隣の市町では様々な事件が起きていますからね。地域エゴかもしれませんけど、自分の地域では起きてほしくないものなんです。
 これで地域のボランティアは総て終りました。20年在籍した同人誌も先日、退会させてもらいましたから、残っているのは日本詩人クラブの常任理事と日本ペンクラブの電子メディア委員会副委員長だけになりました。しばらくは自分の文学を考える時間がとれそうです。



詩誌RIVIERE62号
riviere 62
2002.5.15 大阪府堺市
横田英子氏発行 500円

 血を吸う/正岡洋夫

池の回りを友だちと走っていた
途中で鶏が何度も鳴いた
すると見知らぬ男が近づいてきて
慣れた手つきで鶏の首を絞め
ポケットから金属のストローを出して
胸のあたりに突き刺した
美味しいから飲んでごらん
友だちは血を吸ってから
不思議な顔をしてまた走った

森を抜けると広い野原があった
野ねずみが溝を走った
私たちは素早く捕まえて
平らな石の上で頭を潰した
それから細いストローを刺して
ゆっくり味わうように吸った
いつか春が近づいていて
からだの中から力が湧いてきた

草を引き抜いて振りかざしながら
やがて人のいない峠道に山た
仕掛けた罠には時々兎がかかっていた
ぐったりした兎を木の幹に打ちつけ
首にストローを突き刺して
輪になって順番に吸った
男が言うほど美味しくはなかったが
心もからだも洗われる気がした

峠を越えると隣り村であった
その先へはまだ行ったことはない
谷の向こうの家々から聞こえる声に
いつも懐かしく耳を傾けている
あれから友だちはみな村を山ていった
喉の温かい感触とひりひりする痛みと
少しの悔恨がいつまでも残っていた
いまも人知れず血を吸っている
もう誰にも会うことはしない

 はっきり言えば気持ち悪くて不気味な詩ですが、私自身のこういうことを日常的にやっているのだと思い至ります。直接、血を吸ったことはないけど、誰かが殺した鶏を食べ魚の切り身を食べています。食べられるものにとっては人間という種族に食べられている≠アとになります。殺す者と食べる者を同一視するはずです。
 そのことをまず認識しろ、と作品と言っているように思えてなりません。その上で「喉の温かい感触とひりひりする痛みと/少しの悔恨」を覚えよ、と言われているように思います。人間は「不思議な顔をしてまた走」るためにも「からだの中から力が湧いて」くるためにも動物を食べなければなりません。それには無駄な殺戮をしないということが前提になるように思います。考えさせられた作品です。



機関誌『未知と無知のあいだ』14号
michi to muchi no aida 14
2002.6.1 東京都調布市 方向感覚出版・遠丸立氏編集 250円

 貞松瑩子さんが「夢じらせ」というエッセイの中で、夢に見た女性のことを書いています。蒲団に横たわっている若い女性は娘ではないか、4人家族で幸せに暮らしている娘がなぜ?
 その後、ある人の手紙を見て気付きます。その手紙には次のように書かれていたそうです。

 <私たちは「これから」そして、「ゆける所まで」歩ませて頂けるのですね。ふと気づくと、そのお一人お一人に、仏さまが、より添っていて下さり、さらには新しい「いのち」を光とともに包んでおられる。ありがたいことです。>

 これを読んで作者は気付きました。

 <そして、はっとひらめいた。夢の中で、横たわっていたのは実はわたしだ。わたしが足を撫でていると思ったのは誤りで、ほんとうは、仏さまがわたしの姿になって、わたしの痛みを癒やして下さっておられたのだ。仏さまは病気のわたしを憐れんで、このような形で、慈悲の手を差しのべられて。夢じらせ。久々に夜明けと共に起き出して、この小文を書く力を与えられているのもそうだ。わたしの気力は半ば回復している。>

 この示唆はかなり大きいと思います。夢の中では常に自分が主人公で、一人称なのではないかと思ってきました。このような客観的な夢は経験がありません。宗教的なことは私には分かりませんが、客観性を持った夢というのが重要に思います。ある一線を作者は越えたのかもしれません。
 単なる夢の話と片付けられないものを感じました。こういう視線が私にも欲しいと思ったエッセイです。



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