きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.5.25(
)

 体調も戻って、かねての約束通り義母を鮨屋に連れて行きました。沼津港にある「たか嶋」という鮨屋で、相変わらず混んでいました。でも5分ほどで4人が座れる席が空いて、早い方でしたね。いつも通り上寿司を頼みましたけど、1500円という安さの割には抜群の旨さで、義母にも喜んでもらえました。銀座で食べたら5000円はするかな? 沼津は隣の県になりますけど、自宅から港まで246号線で1時間ちょっと。神奈川県西部に住む者にとっては穴場と言えそうです。



河野俊一氏編
『「さよリーグ・現代詩大会」とは何か』
sayo league
2002.5.25 宮崎県宮崎市 鉱脈社刊 762円+税

 このあとで紹介する季刊文芸同人誌『青娥』74号(1995年2月発行)から85号(1997年8月発行)に渡って企画連載された「さよリーグ・現代詩大会」をまとめたものです。同人誌という枠を越えて、5名の詩人が毎回二人づつ同一テーマで詩作し、その優劣を10回に渡って競い合うという、大変ユニークな試みです。残り3人のうちの一人が審判として判定文≠公表し、最優秀者には「さよりの開き」が与えられるという、言ってみればお遊びの部類かと思いましたが、どうしてどうして、まさに真剣勝負でしたね。判定文≠熨蝠マなものです。第50回H賞詩人の龍秀美氏が加わっていることからも判るように、相当高レベルの作品の競演ですから、その判定≠ヘ難しいものだったろうなと想像できます。
 現代詩の閉塞状態を打開したいと始められたこの企画は、いろいろ言われたこともあったようですが、私は賛成しますね。自分がその場に引きづり出されたらどうするかということは別として、やってみればいいのだと思います。何もやらないで現代詩の閉塞がどうのこうのと言うなら、まず何かやってみたら?と常々思っています。その意味では流行りの詩のボクシングも大いに結構じゃないですか。
 結論から言いますと私はこういう企画、詩のボクシングには参加しません。現代詩の閉塞というのが実感として湧かないからです。それだけ鈍感だということでしょうが、私には私のやり方があるというだけです。しかし、だからと言ってさよリーグも詩のボクシングも批判する気はまったくありません。機会があれば観客にはなるかもしれません。お互い、自分の丈に合ったやり方があると思う次第です。
 思わず自分の方に引き寄せてしまいました、すみません。さよリーグは10回という限定だったのも良かったのかなと思います。一種のキャンペーンですから、5年も10年も続ける意味はないと思います。キャンペーンというものはある時期集中して問いかけるものです。その辺の呼吸は主催者の河野さんも判っているなと思いました。おそらく日本では、あるいは世界でも初めての試みだったかもしれませんね。詩史に残るイベントだったと思います。詩人の力を信じられる思いをしました。



季刊文芸同人誌『青娥』103号
seiga 103
2002.5.25 大分県大分市 河野俊一氏発行 500円

 イスタンブール/河野俊一

夕方の光が
金色の船の形になって
ボスポラス海峡を渡ってゆく
水のひだの形に時は流れ
トルコは
アジアから暮れてゆく
水の回廊には
時の風が
抜けてゆくだけだ
映るものすべて
溶かして
目も
ひざまずく

 「特集・祈り」というテーマでの作品です。「トルコは/アジアから暮れてゆく」というフレーズに思わず◎印をしてしまいましたね。そうなんだ!トルコという国はアジアとヨーロッパにまたがっている国なんだ! なんと壮大な夕暮なんだろうと膝を打ってしまいました。「祈り」というテーマに対しても「目も/ひざまずく」という最終のフレーズでちゃんと抑えていて、これも◎じゃないでしょうか。
 最初は書き出しの3行に惹かれたのです。「夕方の光が/金色の船の形になって」なんて、何度も瞼に残っている海の光景を思い出しました。それも「ボスポラス海峡を渡」るなんて、なんとスケールの大きな作品だろうと思ったのです。そして「トルコは/アジアから暮れてゆく」ですからね。マイリマシタ。
 作者から以前、1997年だと思いますが詩集『抜粋日本国憲法』をいただいていて注目していたのですが、前出のさよリーグと云い、この作品と云い、力量を感じています。



詩誌『あかぺら』7号
acappella 7
2002.5.15 滋賀県守山市
徳永遊氏発行 非売品

 左右の格/中川江津子

眠っているわたしの形から
ひとりのわたしが立ち上がる
それを 右の人 と呼ぶ
残されたもうひとりのわたしを 左の人と呼ぶ

右の人は足を抱えて立ち上がり
右を向く
左の人はそのままの形で
左を向く

右の人の足は大きな筒の中に入れられ
様々な音のシャワーを浴びながら
ゆっくり前後に揺れる
揺れながら この足は誰のものだろうと考える

左の人はただ静かに横たわりながら
なぜ 右の人が立ち上がったのかと考える
かつて わたしたちはひとつであったはずであると
それは 確かにそうであった

眠った形のわたしは思い出そうとする
かつてわたしたちがひとつであった頃
何を考え 何をしていたか と
そして今 わたしは何をしようとしているのかと
まだ 時間は残されているのかと

まだ 時間は残されているのかと

 「格」という発想がおもしろい作品だと思います。人格≠ニとってしまいそうですが、ここはやはり「格」でなければならないでしょうね。人格≠セと、あまりにも平凡すぎる。
 そして「まだ 時間は残されているのか」という繰り返す問いかけは重要でしょう。「右を向」いても「左を向」いても、結局はひとつでしかあり得ない。「何をしようとしているのか」ということは個人個人で考えるしかありませんけど、やはり「時間」のファクターは大きいものがあります。
 何やら現代の喪失感をうたっているように思えて、考えさせられる作品です。



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