きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科 |
2002.5.30(木)
関連会社の役員が弊社を訪れ、会議のあとは弊社側が接待することになりました。接待といっても会社附属の施設での会食ですから、大したことはないんですけど、やっぱり気を使いますね。ほとんど酔えませんでした。まあ、それが正常な姿なんでしょうが、やっぱりお酒は気がねなく呑みたいものです。営業の連中は毎回そういう酒でしょうから、本当に気の毒になります。
役員を送り出したあとは、うちの社員だけが河岸を変えて呑み直し。接待の余韻だったからでしょうか、こちらもあまり酔えませんでしたね。だいたい、木曜日というのも良くない。明日も仕事と考えると、ちょっといい気持になったなと思っても、スーッと醒める部分があって不快です。金曜日にやれよ、金曜日! と心の中でつぶやいて、、、フッと思いました。オレって、よっぽど酒が好きなのかな? フツーの人なら仕事と割り切って呑むだろうに、なんだ、このこだわり様は、、、。己の深い闇を覗いた気分です^_^;
○愛敬浩一氏評論集『詩を噛む』 |
2002.6.10 東京都文京区 詩学社刊 2000円+税 |
詩誌『東国』『鰐組』などに書かれた詩人論、詩集評とともに、2001年3月から2002年3月にかけて「詩学」に連載した「詩誌選評」が載っていました。これがおもしろい。私もこのHPで選評≠ナはなく感想≠書いていますが、なるほど選評とはこう書くものか、と勉強になりました。特に、繰り返し出てくる「同人誌の人数が多すぎる」「個人誌が多すぎる」という指摘は考えさせられます。
著者に言わせると、同人誌の理想の人数は、多くても10人前後だそうです。もちろん力のある同人が結集しているということが前提のようですが、これは何となく判る気がしますね。100人、200人という同人組織もありますけど、それは同人誌という枠を越えて、ひとつの運動体と考えた方がよいかもしれません。同人誌というからには、著者ほどの実感はありませんが私でも20人以下と思います。なぜか? という答を正確に出すのは難しいのですけど…。
「個人誌が多すぎる」という指摘も判るような気がします。特に著者が気にしているどこで切磋琢磨するのだろう?≠ニいう疑問は同感です。これはインターネットのみで詩を発表している人にも同じことが言えると思います。個人誌の発行者は、そういう意味でも積極的に他の詩人と交流する機会を持つべきだと思いますね。煩わしい同人組織を避けて個人誌を発行したくなる気も判りますから、特に留意する点でしょう。
理論的で判りやすい評論集と言えましょう。著者は評論を書く人がもっと出てほしいと考えているようです。私は評論など書ける器ではなく、いただいた詩誌・詩集の感想にもならない紹介をする程度ですが、評論を本格的にやってみようという人には参考になる本だと思います。ご一読を薦めます。
○詩誌『驅動』36号 |
2002.5.31
東京都大田区 飯島幸子氏発行 350円 |
捨てられた老廃牛/金井光子
正月早々
早朝のジョギングコースに
異変が起った
パトカーの赤いシグナルが廻り
足止めされた
走らないで下さい
赤い服でちらつかないで下さい
五・六頭の牛がいます
興奮して追っかけて来ます
あわてて引き返し
駐車場へ行くと
ラジオ体操の仲間がいた
すると
やせた赤牛が
公園の中に突っ立っていた
千円でも売れないらしい
老廃牛 捨てられた牛
牛が見たものは
腰が曲り 背骨が縮み
小さくなった身体の人でも
ひたむきに体操をしている
生きようと必死の
年老いた人間共の姿
牛はうらやむように
その光景を見つめていた
胴体には
「世界一安全」と
マジックで書かれていた
報道によると
二・三時間後
その中の一頭は 公園をぬけ出し
近くの裁判所に
捨てた飼い主を訴えに行ったらしい
第4連、最終連を読んで、思わずフフッと笑ってしまいましたが、その前の連が頭に残っていて、その笑いも固まってしまいました。同じ生物でありながら、片や「生きようと必死の/年老いた人間共」、片や「千円でも売れないらしい/老廃牛 捨てられた牛」。この差異はいったい何なんだろうと思ってしまいます。「捨てた飼い主を訴えに行」く牛の憤りも判る気がします。
おそらくBSE問題の最中の事件でしょう。売るに売れない「老廃牛」を捨てた酪農家の心情も窺い知ることができます。国に問題の総てを押し付ける気もないけど、やはり失政の犠牲者は酪農家と牛なのだと思います。「世界一安全」という文字に酪農家の嘆きを見る思いがします。そこが作者をして最終連を書かせた動機なのかもしれません。簡単には片付けられない作品だと思いました。
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