きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科 |
2002.6.5(水)
日本ペンクラブ電子メディア委員会があったのですが、サボりました。これでも会社員ですから、ペンをサボったというのはおかしいのですが、会社で仕事があったのです^_^; 社員教育で小田原市にあるアジアセンターという施設に行っていました。計4日間コースの最終日で、いつも重要な日なんですけど、今日は特に重要な日だったんです。研修生の実例発表会。これまでの研修の成果が示されるとともに、研修生の問題に講師が直接向き合うという、いわば真剣勝負の日です。
私の立場は講師を援助するという、ちょっと気楽なものなのですが、今日は違いました。二人の講師のうちの一人が欠席! 重大なトラブルが発生して職場を抜けられないというので、結局、私が代行することになりました。数年ぶりの講師ですから緊張しましたけど、まあ、無難にこなしました。300例か400例くらい、そういう実例に接していますから、過去の経験と知識の範囲に収まりました。そのキャパシティを越えたらどうしようかと思っていましたけど、そんなものはそうそうあるもんじゃないですね。世の中には新しいものなどそれほど無いもんだと改めて知らされましたよ。そういう慢心が怖いんですけど^_^;
○湧彩詩誌 No.14『天涙』 |
2002.3.7 栃木県茂木町 彩工房発行 非売品 |
天泣
雲がなく 晴天の
陽光の中で
降る あめに
懐かしいものと出会う
落下する雫が
色 あざやかに
映した
美の水は
天上の涙にも似ている
滅多にないことですが、確かに「晴天の/陽光の中で/降る あめに」出会うことがあります。いわゆる天気雨≠竍狐の嫁入り≠フことですね。それを「懐かしいものと出会う」と感じる作者の感性の繊細さに驚きます。私などは、どういう現象なんだろう、なんて、どうでもいいことを考えてしまいますけど…。
さらにすごいなと思うのは、最終連です。「天上の涙」というのはある程度発想可能なことだと思いますけど、「色 あざやかに/映した」という観察はなかなかできることではないでしょう。発想とともに観察力の鋭さにも敬服してしまいます。観察という科学者の基本的な態度も詩人には負けるのかな、とも思ってしまいました。
○詩と散文誌『多島海』創刊号 |
2002.6.1 神戸市北区 江口節氏発行 非売品 |
桃の日/彼末れい子
わたしは一度盗みをしたことがある
わたしの通った村の中学校は
山の急斜面に建っていた
せまい運動場
急な石段で結ばれた三つの校舎
校舎と校舎のあいだには
お茶の木と桃の木がたくさん植えられていた
貧しい中学校は
お茶の葉や桃の実をお金にかえて
卓球台などを買っていた
その大事な桃の実を
わたしは盗んだのだった
夏の日の放課後
友達二人と
最後にわたしが実をむしるようにもぐと
枝がたわんでざわざわとゆれた
その時
見回りの教頭先生の怒声が下から聞こえてきた
わたしたちは驚いて
いっせいに山に逃げ込んだ
背丈ほどの笹の中でじっと息をひそめて
自分の心臓が大きい音をたてるのを聞いていた
けれどいつまで待っても教頭先生はあらわれなかった
空が夕陽に染まるまで
わたしたちは隠れていて
薄暗くなってから
灯りのもれる職員室に行き
ついに「自首」した
話を聞き終わると
教頭先生は黙って桃をむいて
三人に切り分けてくれた
これは缶詰になる固い桃や
食べてみ
わたしたちは泣きながら桃の実を口にいれた
涙がまじって少しも甘くなかった
これは親にも誰にも
言わんことにしとこ
ええな
その後も その時のことは
誰もが忘れたかのように
いっさい口にしなかった
そしてわたしは
おとなを
信頼してもいいのだということを
その桃の日から学んだ
「桃の日」というタイトルを見て、甘ったるい作品なのかなと思いましたけど、第1連でギョッとして思わず惹き込まれてしまいました。そして、ともかく読ませます。詩作品としてはあまりにも散文的ではないかと多少の不満とともに読み進めました。最終連で納得しましたね。この作品の途中は散文的でいいんだと…。
「おとなを/信頼してもいいのだ」というフレーズには胸が熱くなるものを感じました。「桃の日」というタイトルも胸にストンと落ちてきました。改めて良いタイトルだなと思います。古き良き時代、と言ったら親の世代になってしまった今、無責任な気もしますが、そんなことも感じます。散文と詩、タイトル、時代といろいろと考えさせられた作品です。
○詩誌『しけんきゅう』138号 |
2002.6.1
香川県高松市 しけんきゅう社発行 350円 |
春の衣/倉持三郎
葉を落としていた雑木林が
衣をまといはじめている
うすいみどりの衣はまだ
体の一部を隠すだけだ
ほっそりした樹木は
はずかしそうにうつむいている
うすみどりいろの小さい手のひらで
乳房のあたりを隠すのが精一杯だ
衆人の目を逃れたいのだが
地面にしばりつけられて
一歩もあるけない
後ろ向きになることもできない
うつむいているだけだ
乗客は
車窓から
裸身を見ないように目をそらす
樹木を人になぞらえることは無いわけではありません。しかし、裸の女性として擬人化するのには初めて接しました。言われてみればそう見えないこともありませんね。そして「地面にしばりつけられて/一歩もあるけない」というフレーズに作者の本質的なやさしさを感じます。力の無いもの、身動きできないものへの愛情と言っていいのかもしれません。
圧巻はやはり最終連ですね。「乗客」が紳士的なのは作者の願望の現れかもしれませんけど、この作品全体からは願望≠ニは思えません。作者が心底そう思っているのだと受けとめてしまいます。ここにも作者の本質的な人間愛を感じてしまうのです。
○詩誌『Messier』19号 |
2002.6.3
兵庫県西宮市 非売品 Messierグループ・香山雅代氏発行 |
無辺光を翔ぶ十六分(ぶ)休符/香山雅代
唸りをひそめる
熟れた大地 そこで
禾穂を刈るのは だれ
百花屏風の曠野に 見入る
なにごともなく 木星の真下に 金星のめぐる
風月の窓が ひらく
きんぽうげは いちめんに咲きにおう
ところどころ 侘しく金泥に抱かれ 風をとめている
この消去の里にこそ ちとせを ものいわぬ田畑(異奈田)にこそ
蝶も 翔ぼうもの
鐘も 響こうものを
大地踏みの
黒き尉や 青獅子も 躍りだす
いつしか 縹の変容の空の下に 吸われてしまった
堆く積みあげられた 刈穂のあいだを
街道をゆく 馬子と馬車と それを追うこどもらの
淡墨絵の残映とともに 木洩日のなかにある粒子
忘れられた
忘れられない刻の滴の
花弁の壁には
無辺光を 翔ぶ
十六分(ぶ)休符が ロ頻んでいる
つくづく自分を無学だなと思います。タイトルの「無辺光」がまず判りませんでした。辞書によると仏語。十二光の一つ。阿弥陀仏の光が一切の世界をあまねく照らしてかぎりがないことをたたえたもの∞勢至菩薩(せいしぼさつ)のこと≠ニありました。これで大意を理解することができるようになりました。あとは「尉」ですね。こちらは「じょう」と読み能楽で、老人の翁の面≠ニいう意味が合っているかと思います。
荒い解釈をすると「百花屏風の曠野」の「無辺光」の中を「十六分休符が」「翔」んでいる、ということになり、人生の途中の休み、と考えるのは考えすぎかな? それとも「十六分休符」を蝶に見たてた方が良いのかもしれません。この世ならぬ極楽の世界を思い描くこともできますね。
なお「ロ頻んで」は「ひそんで」と読み、「ロ頻」は本来、一文字です。私のパソコンでは表現できなかったので「頻」に「ロ」を付けて作字してあります。
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