きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科 |
2002.6.7(金)
日本詩人クラブの理事会がありました。いつもなら15時頃に会社をサボって出掛けるのですが、今日は休暇を取りました。理事会報告資料の準備ができていなかったので、午前中に仕上げておこうという魂胆からです。資料作りも順調で、意外とのんびり出来ましたね。
理事会そのものも早く終りました。関西大会を明日に控えて、理事諸侯も早く帰宅したかったからです。大阪の会場に13時に着くには、8時頃の新幹線に乗らないと間に合いませんからね。議論が深刻になるような議題もなく、順調に終ってしまった次第です。
私は帰りの小田急特急ロマンスカーを予約してあったんですけど、早く終った関係で1時間ほど時間が余ってしまいました。早めの特急に換えてもらうよう窓口で交渉しましたけど、すべて満席で不可。金曜の夜ですからね、無理もない。そこで行きつけの新宿大ガードそばの「ランプ」に行きました。いつもは昼に訪れる場所ですから、ママさんに「おや!珍しい時間に」と言われてしまいましたよ。そう言われてみれば夜に行ったのは初めてかな? お陰でおもしろいお酒が呑めました。その名も「焼酎コーヒー割」。なんだこりゃあ!? ママさんに言わせると、ママはコーヒーが好き、ご亭主のマスターは焼酎が好き、じゃあドッキングしちゃえ、ということで出来たものだそうです。マスターが焼酎をコーヒーで割って、厨房の隅でこっそり呑んでいたのがママに見つかった、というのが真実らしいんですけど^_^;
意外とイケましたよ。焼酎なんて烏龍茶で割ったり麦茶で割ったりできますから、コーヒーというのもあり得ますね。家庭でも出来ますからお試しあれ。面倒だったら「ランプ」に行って呑むのも良いでしょう。新宿西口を出て大ガードまで行って、宝くじ売場のあるビルの地下1階です。
○松本信洋氏詩集『片割れを持つ者』 |
2002.6.1 千葉県茂原市 草原舎刊 1800円+税 |
距離
V
「私」と「あなた」との距離は
誰にでも見わたせるという訳ではない
大人には見えて
子供には見えぬ距離 また
子供には見えて
大人には見えぬ距離がある
女たちの中には
極度の近視のゆえに あるいは
向こう見ずのゆえに あるいは
一方が他方にぴたりと重なり合う半球体となるために
赤裸々に踏み越えて来る者がいる
「距離」の反意語は至福(しあわせ)だ
しかし
都会の街角
弱った鰮となる通勤の車輛の中で
なお
鋭く研ぎ澄まされた距離そのものとなって
かろうじて威厳を保っているのも私たちだ
一読して、非常に論理的であるが感覚的な詩集だと思いました。相矛盾するような紹介の仕方ですが、そのように思うのです。紹介した作品は「距離」という総タイトルのもとに3編の作品があり、その最後のものです。ここにも「大人には見えて/子供には見えぬ距離」「子供には見えて/大人には見えぬ距離」というように論理がきちんと展開されていると思います。その上で「鋭く研ぎ澄まされた距離そのものとなって/かろうじて威厳を保っているのも私たちだ」という、ある意味では感覚的な言葉で締めくくられています。こういう手法というのはなかなか出てこないものだと言っていいでしょう。
「「距離」の反意語は至福だ」というフレーズもいいですね。こういう言いきり方、論理に展開の仕方に魅力を感じます。作者は私と同年代。この詩集ですでに3冊目だそうですが、浅学にして存じ上げませんでした。こういう、いわば硬派の詩人がいたのかと驚くとともに今後の活躍が期待できる詩人だと思いました。
○詩誌『叢生』120号 |
2002.6.1
大阪府豊中市 叢生詩社・島田陽子氏発行 400円 |
滝/島田陽子
滝は滝になりたくてなったのではない
落ちなければならないことなど
崖っぷちに来るまで知らなかったのだ
思いとどまることも
引き返すことも許されなかった
目をつぶって身を任せた
断念が川を白い瀑布に変えた
悲鳴と共に
滝つぼに叩きつけられた
称名念仏が聞こえた?
人間にちからを与えた?
まさか……
滝は
その前に立つ者を沈黙させる
とり返しのつかないものをつきつけて
最終連が見事な作品だと思います。何やら私たちがいつも「とり返しのつかないものをつきつけ」られている気になってきます。本当はそうなんでしょうね。平々凡々と毎日何となく暮していますけど、裏側をひっくり返してみると「その前に立つ者を沈黙させる」事態にいつも置かれているように思います。それを考えるのが嫌で、避けているだけなのかもしれません。本当は「思いとどまることも/引き返すことも許され」ていないのかもしれません。
人はその時「称名念仏」を称えるものなのでしょうか? 滝は「人間にちからを与え」てくれるものなのでしょうか? 作者の回答は「まさか……」です。まさかそんなことはあるまい、と文意から取ることができます。ここに作者の根本の思想が読み取れる、と言ったら言い過ぎでしょう。そんな単純なものとは思われませんが、読者ひとりひとりの、己の思想を検証する作品だとも思いました。
○栃木県詩人協会編 『ANTHOLOGY』2002年版 |
2002.5.25
栃木県宇都宮市 高橋昭行氏発行 1500円 |
ゆき/神山暁美
白いから ゆき と名づけた
夕餉の支度をはじめると
決まって台所の窓の下で蹄く
煮あがったばかりの里芋や
焼き網にのせるまえの魚の尻尾
ゆき専用の欠けた灰皿に入れてやると
何でも残さず食べていく
天気の良くない日が続いたせいか
それとも
もっとおいしい食べ物がもらえる家をみつけたのか
ある日を境に
ゆきはわが家に来なくなった
雨上がりの朝
散歩からもどった父が ゆきを見たという
閧(みち)の中ほどで自動車に撥ねられ
その横には子猫の死体もふたつあった と
母猫ゆきが
子供を庇ってもろとも轢かれてしまったのか
母親の死を理解できない子猫たちが
寄り添ったまま重ねて事故に遭ったのか
人の世界にもこういう死があったような気がする
親は身を捨てて子を護ろうとし
子はまるごと親を信じきり
いま 小さないのちがポリ袋に入れられ
つめたくなって運河に浮かぶ
もう ゆきが来ることのない台所の窓の下
雨水をうけた灰皿が
青い空をまるく切りとっている
母猫と子猫の無念さが伝わってくる作品です。「母猫ゆきが/子供を庇ってもろとも轢かれてしまった」にせよ「母親の死を理解できない子猫たちが/寄り添ったまま重ねて事故に遭った」にせよ、人間の作り出した「自動車に撥ねられ」る理不尽さを思わずにはいられません。
かく言う私も一度だけ、深夜の東名高速道路で動物を撥ねたことがあります。片側2車線の追越し車線を走行中、左側から何かが走ってきました。アッと思った時は遅く、ブレーキをかける間もなく何かがゴツンゴツンと車体の下に衝たったのが判りました。恐らく犬か狸か…。あの感触は20年を過ぎた今でも忘れることはありません。
それと同じ災いがこの親子猫を襲ったのかと思うと、何ともやり切れないものを感じながら拝見しました。
第4連は反語のような気がします。「親は身を捨てて子を護ろうとし/子はまるごと親を信じきり」というのは過去の話で、現在では親は子を捨てて身を護ろうとし/子はまるごと親を放り出し≠ニいう状況でしょう。だから作者も「人の世界にもこういう死があったような気がする」とあやふやな記憶として描いているのではないでしょうか。皮肉といえばこれ以上の皮肉もないでしょうね。
最終連は見事だと思います。「雨水をうけた灰皿が/青い空をまるく切りとっている」という即物的な表現が、今は亡き親子猫の無念を表徴しているフレーズとして成功しています。作者の、動物に寄せる深い愛情が表出した作品と言えましょう。
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