きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.6.8(
)

 日本詩人クラブの関西大会が大阪・南森町の東興ホテルで開催されました。参加者は110名ほど。2年に一度のイベントですが、しっかり大阪に定着したように思います。例によって参加者全員による自己紹介は予定時間を大幅に超過して、これも毎回のことですから、大阪らしいなと余裕を持って見られるようになりました^_^;

020608

 写真は、これも恒例になっている自作詩朗読。こちらは10名に絞ったようで、聴いている者にとっての時間はちょうど良いものだったろうと思います。テーマを「母」「海」「虫」として、各3〜4人の朗読者。聴く者としては頭の切換えもやりやすく、良い試みだったと思いました。
 夜は、このHPの掲示板に書込みをしてくれたSAKUTAROさんに連れられて、曽根崎のカラオケに行ってきました。会友の萌木さんとその義弟さんと4人。何か久しぶりにカラオケに行ったなという気分で、深夜1時まで10曲以上歌ったかな? そう言えば前回カラオケに行ったのは暮の新宿でしたから、半年ぶりになります。ついつい若い人たちに釣られてしまいましたけど、楽しい夜でしたね。皆さん、意外と古い歌を知っているので驚きました。負けないように古い歌を引っ張り出して歌いましたが、酔って音程を外しっ放し。醜態を晒した夜でもありました。



木島始氏著『山道あるき歌いだし』
yama aruki utaidashi
2002.6.10 東京都文京区 創風社刊 1300円+税

 中編「山道あるき歌いだし」と短編「厄払いの唄」の2編が載っていました。一応、童話という体裁なのでしょうが、小説としても詩作品としても読める内容です。特に「山道あるき歌いだし」はおもしろくて薦めたい作品ですね。ロクスケを中心とした山村の子供たちとマンサクじいさんが主たる登場人物で、まるでテングのように山を歩くロクスケが引っかき文字≠求めて子供たちとマンサクじいさんと山に入り込む物語です。冒険譚とも言えるし、文字とは何かをも考えさせられる作品とも言えるでしょう。
 著者が空想の世界で遊ぶのが楽しくてしょうがないという雰囲気が伝わってきて、読み手の私も著者の空想に輪をかけて空想するという、おもしろい体験をしました。子供の頃に空想した山歩きを思い出してしまいました。洞穴で焚火をして、すがすがしい朝を迎えて…。それを作品の中では全部やっているんですね。現実ばかりを見なければならない実生活にあって、一服の清涼剤とも言えましょうか。疲れた頭にどうぞ、と薦めたくなる本です。



木島始氏著『ともかく道づれ』
tomokaku michizure
2002.6.10 東京都文京区 創風社刊 1300円+税

 こちらは10編の短編と16編の4行詩で構成されています。最後の短編「ともかく道づれ」さらに5編に分けられていて、あとがきでは4行詩が2編加わって、と、あとがきまで楽しめる本です。どれかを全編引用したくてしょうがないんですが、著作権を考慮して我慢しています。作品は著者の幼少時代からの思い出を作品化したようで、木島始研究者にはたまらないものだろうなと思います。一応、童話仕立てになっていますが、前出と同様に短編小説としても長編散文詩としても通用するものです。
 創風社刊の本はこれで4冊読ませてもらったことになりますが、タイトルの付け方がすごいなと思います。以前の本は『ぼくらのペガサス』『飛ぶ声をおぼえる』でした。それと今回の2冊のタイトルを見ると、さすがは詩人の本だと思いますね。童話と言っても小学校高学年か中学生ぐらいが対象でしょうか。自由な発想、自由な空想の中で子供は育ってほしいものだと、これらの著書を読んでつくづく思います。学校の図書室には置いてあるのかな? ぜひ置いてほしいですね。



個人誌『むくげ通信』10号
mukuge tsushin 10
2002.6.1 千葉県香取郡大栄町
飯嶋武太郎氏発行 非売品

 顔/具常(クォサン)

温和ではなくても
険しくてもいい
ただ 純真な顔が懐かしい

あのような天性の顔を見たら
古い友人に出会ったように懐かしい

最近会う顔ごと
これは凶悪ではなくても いらだち
図々しくて のらりくらり
つんと澄まし 薄情で 異常

顔は人の心の鏡という
誰かれなく
あんなに顔が捻れているのは
心が処世と利害ばかりに気をとられ
貪欲がぎっしり満ちているからだ

いま あの顔 顔を
まっすぐ伸ばそうとするなら
みな それこそ心を空にして
ときごとに天と雲を
ぼんやり仰いで
山と野 川と海を
ぼんやり見つめて

生と死をじっくり考え
ともに生きる人の役割数えながら
生の誠の甲斐と喜びを求めて
身もだえし 悔やみ 泣き
虚しさに陥っても
永遠を描き得るならば
本然の顔を持ち得るのだ
  
詩集(人類の盲点にて)より

 これは韓国の作品を飯嶋さんが訳したものですが、まるで日本のことのようですね。第3連の「図々しくて のらりくらり/つんと澄まし 薄情で 異常」や第4連の「あんなに顔が捻れているのは/心が処世と利害ばかりに気をとられ/貪欲がぎっしり満ちているからだ」というフレーズを拝見すると、まさに日本人のことを言っているのかなと思います。韓国人のことだとは俄かに信じられないほどです。
 どちらの国も処方箋は「ときごとに天と雲を/ぼんやり仰いで/山と野 川と海を/ぼんやり見つめ」ることしかないのかもしれません。「ともに生きる人の役割数え」よ、という指摘も重要だと思います。国の違いを越えて、人間の本質的な生き方を教えられた作品です。



澤山咲恵氏詩集『かげもなし』
kage mo nashi
2002.6.11 大阪府豊能郡能勢町
詩画工房・志賀英夫氏発行  2000円

 夕ぐれ

眉間にしわをよせたような
空が 黒く流れる

夕ぐれのバスの中
啄木鳥
(キツツキ)のような女が立っている
できたての あんまんのような女は
身を反らす
バスに揺られながら
生活に疲れた顔々が
交錯する

バスを降りる時の運転手の
そっけない態度
肩をおされたように
雑踏にまぎれてゆく

 「眉間にしわをよせたような/空」という言葉に、まず惹かれました。おもしろい表現だなと思います。「啄木鳥のような女」「できたての あんまんのような女」という表現もいいですね。同性を見る眼の厳しさも感じます。「運転手の/そっけない態度」というのも、よく観察していると思いますし、何より自分を「肩をおされたように/雑踏にまぎれてゆく」と突き放しているところに好感が持てます。良い子でいる作者なんて何の魅力もありませんからね。
 詩集には肉親が多く登場します。肉親だから当然かもしれませんが、かなり著者は肉薄して書いています。しかし、ときどきフッと離れた部分があって、そこに著者の本来の詩人としての素質を感じます。3冊目の詩集ということですが、まだまだ書かなければいけないものを持っている詩人だと思いました。



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