きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科 |
2002.6.12(水)
日本詩人クラブ「詩界通信」11号の原稿執筆依頼書を送付しました。関西大会報告を実行委員にお願いし、追悼文をふたつ依頼しました。7月31日締切、9月30日発行予定です。事前に電話でお願いしてありますけど、依頼書の届いた皆さん、よろしくお願いいたします。
10号の発行予定は6月30日です。ここまで2ヶ月に一度の割合で発行してきましたが、ここで3ヶ月の間が空きます。ちょっとホッとしています。やはり2ヶ月に一度というのは結構キツイですね。私の50年に及ぶ歴史^_^;
の中でも初めての経験です。分厚い詩誌を月刊で発行している人はつくづく凄いなと思います。足元にも及びませんけど、任期終了まであと一年、がんばります。
○詩誌『獣』56号 |
2002.6
横浜市南区 獣の会・本野多喜男氏発行 300円 |
腰/本野多喜男
<チン オモフニ………タヘガタキヲタヘ
シノビガタキヲシノビ>
の声は熄んだが
つぎに襲ってきたのは
ひもじさ とにかく腹がへった
何も考えられないから 何でも食べた
残飯の ごった煮だって食べた
思想のごった煮だけは食べられなかったが
さつまいも さつまいも さつまいも
を求めて右往左往
麻袋を背負って
無蓋貨車 乗り心地は貨物なみ
ちがさき つじどう
すずめのみや こがねい あたりの
畑 畠のあるところを
くまなく歩いた
そうだ その時からだ
腰痛の芽が急速に育ちはじめたのは
(第五腰椎変形)
(間欠性跛行)
こいつは始末の悪いやつだ
歩きはじめてから
十分後か十五分後には
定まって出てくるいやなやつ
椅子に坐るやいなや
引っ込んでしまういやなやつだ
体内に棲みついた
ゲリラ
そこで散歩をやめて
テレビ テレビ テレビ
ところがである 画面から
<チン オモフニ>
のひ孫の顔が飛び出してきたり
はるかの涯の国
飢えた瞳 こどもの額
透明な表情 いつ終わるかも
果知れぬ黒雲
またまた腰を取り巻く
痛みの沼から
這い出せることはないようだ
敗戦直後から現代へ、昭和天皇からそのひ孫へ、「腰」を縦糸として時代を圧縮したおもしろ味がある作品だと思います。戦争を知っている世代は、こうやって世の中を見ているのかと勉強させられた作品でもあります。特に「思想のごった煮」という言葉には惹かれました。統制された思想が一気に自由化された雰囲気が伝わってくる言葉です。しかも、それは「食べられなかった」という作者の言葉を拝見すると、詩人として毅然としていたのだろうなと想像でき、詩人のあるべき姿まで想起してしまいます。教わることの多い作品です。
○詩誌『青い階段』69号 |
2002.6.1
横浜市西区 浅野章子氏発行 500円 |
沈丁花/森口祥子
勝手口の夕暗がりに
その花は匂った
春が来るということ
もう春が来たのだと知ること
見えないものが闇に浮かび
聞こえないものが闇に聶いた
新しい教科書は
無用な緊張を強い
まどろみの微熱は
つかの間の休息を奪った
春はいつも不安をつれてくる
新しい生活は
期待の上に気負いものせて
寝つかれない時間を数えさせる
春はいつも何がしかの始まり
出立はいつも眩しい
その香りを好んで植えたのに
今 花粉症の季節を告げる花と呼ばれて
沈丁花は戸惑う
「春はいつも不安をつれてくる」ものですが、やはり「春はいつも何がしかの始まり/出立はいつも眩しい」ものだと思います。時に「新しい教科書」のように「無用な緊張を強い」ことがあったにしても…。
その春を知らせる「沈丁花」が「花粉症の季節を告げる花」とは私も知りませんでした。これは嫌な代名詞でしょうね、花にとっても人にとっても…。花粉症の人には気の毒ですが、やはり「沈丁花は戸惑う」だろうなと思います。静かな書き方ですが、考えさせられるものの多い作品と言えましょう。
○個人誌『パープル』20号 |
2002.7.16
川崎市宮前区 高村昌憲氏発行 500円 |
病床二題/斎藤
天井の犬
鼻には酸素マスク 腕には点滴の管三本
導尿管まで繋がれては酒呑(しゅてん)童子も様がない
天井の吸音テックスの穴が集まり犬の顔
ナース・コールのべルが頼りの 夜も真夜中
暗闇から鼻を鳴らして犬が近付く音がする
夢なのか顔見知りの犬が見舞いにやってくる
スパニエル シェパード ダルタニアン
夢でいいから 酒買いハチ公!むりだよなぁ
斎藤さんが入院なさった時の作品だそうですが、これは私にも理解できますね。骨折で入院した時は、病院の目の前のスナックにこっそり呑みに行ったことを思い出します。仲間はウイスキーのポケット瓶を見舞に持ってきたしなあ^_^; まあ、それはそれとして「夜も真夜中」「酒買いハチ公」なんて言葉はおもしろいですね。病にあっても詩人の面目躍如、と思います。
高村さんの編集後記によると「このような詩人は、天国の神さまも相手にしてくれなかったらしい。今は退院されて毎日『元気で酒をなめている』との由」とあります。お元気になられたようで、お祝い申し上げます。
○堀江泰壽氏詩集『沼田・春夏秋冬』 |
2002.6.10 群馬県伊勢崎市 紙鳶社刊 非売品 |
バージンロード
娘とあゆむバージンロード
他人ごとになんかいも見てきたけれど
この深紅のジュウタンをともに進む
嬉しいはずの良き日
膝が笑う 脚が重い
重い分 娘を愛した量なのかもしれない
パイプオルガンの音が前にこいとせがむ
娘のからめている腕がとても軽い
このまま引き返すにしてもあまりに多くの眼のなか
勇気もない
ああ来てしまった
娘をわたすあらかじめさだめられたライン
娘と男は軽やかに腕を組んだ
その場に置きざりにされ
目の前で しかも
手の届かぬところで行われている祭事
歓びがあふれている娘
わたし は空白のなかにいる
思えば明日のことだ
夢にみたままのことがきっと行われる
父親の気持が素直に表現されて、いい詩だなとまず思いました。「重い分 娘を愛した量なのかもしれない」「その場に置きざりにされ」「わたし は空白のなかにいる」などのフレーズが効いていて、わが身にも多分起ることなので、身につまされて拝見しました。
そして、最終連で驚きましたね。あっ、これは「明日のこと」なのだ! 作者はまだ経験していないのだ! それを書くなんて凄いことだと思いました。しかも「夢にみたままのことがきっと行われる」と、来てほしい、来てほしくないという複雑な心境が見事に表現されています。この最終連は文句なしに凄いと思います。娘の結婚の詩は多くの詩人が書いていますが、こんな書き方をした人は誰もいないんではないでしょうか。大袈裟に言えば詩史に残る作品と言ってもいいでしょう。
こういう作品に出会えるから、このHPでの紹介というのはやめられませんね。いい詩を読ませてもらえて、本当に今夜はうれしいです。
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