きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.6.15(
)

 土橋治重さんを語る会・第9回「風忌」が神楽坂エミールで開かれました。講演は新川和江さんと伊藤桂一さんのお二人で、それぞれ土橋さんの思い出を語ってくれました。映画雑誌社の社長をおやりになっている息子さんもおいでになり、変な言い方ですが賑やかな会でした。

020615
講演・伊藤桂一さん

 私も発言を求められ、昨年と同じことをしゃべってしまいました。すなわち、集った人の中では私が最も土橋さんと関係が薄いだろうということ。昔、『風』の集りに誘われたことがあり、出席の返信を出したんですが、前日になって参加できないことが判りました。あわてて土橋邸に電話したら、ちょうど土橋さんがお出になりました。欠席の旨を伝えると「それは残念ですね」というご返事。それが最初で最後の会話でした^_^;
 まあ、そんな関係でしたけど、『風』の後継誌『花』のメンバーとは親しくしてもらっていますので、その繋がりで出させてもらっています。楽しい集りなんです。



詩誌『交野が原』52号
katanogahara 52
2002.5.1 大阪府交野市
金掘則夫氏発行  非売品

 深い海/森野満之

菊名
(きくな)駅近くの奥まった路地に変な店がオープンした
大きな看板にはまだ何も書かれていない
外が明るいうちはいつもシャッターが下りている
暗くなるとシャッターが上がり
店内にぶら下がった照明がいっせいに明るくなる
二階の老夫婦から借りたこの店舗には
上手に修理された椅子がいくつも置かれ
ガラスの戸棚には雑多な小物が小奇麗に飾られてある

一九五○年代 六○年代 七○年代
生活の断片にそれなりの値札がついている
長い髪を束ねて烏賊
(いか)のようにぬるりとした若い店主は
あちこちで解体される古い家から
失われていく時代のデザインを拾ってくるのだ
あくまでも自分のセンスにこだわり
用済みの物を手入れして
自分なりに値をつけて楽しんでいる

客の方はこれもまた変である
店主のこだわりにはまるで関心がない
人通りもなくなるころこの店の明かりに惹かれてやって来るのは
外が明るいうちは寝ていた引きこもりの子である
生身の自我を後生大事にしまい込んで
そのまま硬直してしまった甲殻類のようだ
しばらく店主と話をして
自分の殻から少しだけ顔を覗かせて帰っていく

つぎに近づいて来るのは路上生活者である
闇にまぎれて生きているというよりも年の瀬はとにかく寒い
回遊していなければ凍えてしまうのだ
明かりは恋しいがもちろん店内には入らない
熱いお茶を出されると黙って飲んだ
(あか)が鱗(うろこ)になった顔に目は不思議なほどきれいである
午前一時 明かりが消えてシャッターが下りる
本日の売り上げはゼロである

 いいタイトルだなと思います。最終行もいいですね。「店主」「引きこもりの子」「路上生活者」の人物描写も書き足らないことはなく、書き過ぎてもいず、絶妙なバランスで描いていると思います。作者には小説家の素養もあるのかもしれません。
 こんな店が実際にあるのかどうか知りませんけど、あり得ることだなと思います。そんな時代なんでしょうね。説得力のある設定と言えましょう。それにしても、いいタイトルです。



詩誌『石の森』109号
ishi no mori 109
2002.5.1 大阪府交野市
金掘則夫氏発行  非売品

 休日/奥野祐子

私の休日
それは一杯の紅茶の中で始まる
ふちの欠けた木馬の模様のマグカップに
なみなみそそいだアールグレイティー
琥珀色の熱い水面を
銀のスプーンでぐるぐるまわす
どこかでけたたましい女の笑い声が聞こえる
紅茶は秘密と毒の匂いがする
昼下がり遠い異国の詩人のコトバを読む
コトバはインクではなく
血でかかれていた
時を超えて
私はあらんかぎりの力をこめて
詩人の痩せた体を抱きしめる
ミシリと鈍い音がして
詩人はまっぷたつに折れてしまう
夜がふけて布団に入って明かりを消す
今日はどんな形で眠ろうか
身体を丸め 私は石になる
魂だけははばたいて
夜の空へと旅にでる

 おそらく、朝・昼・夜の3つの連に分けられてもおかしくない作品だろうと思います。それをあえて繋げて書くことにより、おもしろい効果を出していると言えます。もともと時間は連続していて、連ではっきり分けられるようなものではありませんからね。そんなことも作者は意識しているのかもしれません。
 「どこかでけたたましい女の笑い声が聞こえる/紅茶は秘密と毒の匂いがする」「ミシリと鈍い音がして/詩人はまっぷたつに折れてしまう」などのフレーズはそう簡単に解釈できるものではありません。しかし雰囲気は判るし、いつまでも心に残るフレーズです。「休日」を表現した作品としてはなかなか見ることのできないものだと思います。



島秀生氏編・著
『ネットの中の詩人たち』
net no naka no shijintachi
2001.7.20 東京都千代田区 花神社刊
1238円+税

 箱入り/島 秀生

娘は
あき箱を見ると欲しいと云う
お菓子の匂いや石鹸の香り
きれいな箱もきれいでない箱も
娘は大事そうにかかえて行く
おもちゃ箱の回りには
集めたあき箱があふれて山積みになっている
からっぽの箱の中に
娘はどんな夢を入れるのだろう
冷めた眼の父親にはわからない
狭いわが家には不似合いな収集癖だと
いつまでも片付かない部屋に業を煮やして
娘に無断であき箱を捨てることがある
冷めた手の父親は部屋が片付いたと
一瞬よろこぶが
実は 家ごとすっぽり
まだ娘の夢の箱の中におさまっている

 編著者のHPに集る19名の人たちの作品集です。島さんとは先日の日本詩人クラブ関西大会でお会いしていますし、本著の略歴で年齢も判っていますけど、他は若い人が多いようです。まだまだ書き方を勉強してほしいという思いがあるのが正直なところですけど、彼ら彼女たちの熱意は伝わってきます。私自身の10代、20代を見ているようで、口はばったく言わせてもらえば、ほほえましい^_^;
 そんな中で詩として成り立っているのは、やはり島さんの作品だと思います。紹介した作品のように「娘」と「父親」の人間像が描けています。そして「家ごとすっぽり/まだ娘の夢の箱の中におさまっている」という押え方も成功していると言えるでしょう。ご自分の力も伸ばしながらHPに集る人の作品を見ていくというのは、並大抵のことでは出来ないものだろうと想像しています。でも、始めたことだし、亡くなった親友への追悼という意味もあるHPのことですから、がんばってほしいですね。陰ながら応援しています。



詩の雑誌『鮫』90号
same 90
2002.6.10 東京都千代田区
<鮫の会> 芳賀章内氏発行 500円

 足もとで/仁科 龍

気がつくと
玄関前の踏み石のまわりに
砂の山五つ 眼にとまる
十ミリはある蟻たちが巣くったようだ
めざわりな気分を箒で掃きつぶし
それぞれの穴にたっぷり水を入れこむ

あくる日の夕方 気にして見ると
また砂の山 さらに大きく盛り上り
蟻たち群れて 占領地の拡張に余念がない
少しいらついて消毒液を流しこむ
とび出した四・五匹が死んだのを確認して
箒でまた地ならしをする

二日ほどして朝 気がつくと
きつい消毒臭がして 砂の山さらに大きく
蟻ども群れて 巣の再構築が進んでいる
いきなり怒りがこみ上げてきた
殺虫剤を出入りする穴にさしこみ
しつこく噴霧する
逃げ出した奴らへもふきつける
それっきり 姿が消えた
玄関前の足もと 箒目がすっきりする

二○○二年のこの春
NYの多発テロ以降その余波世界を変え
復讐と憎悪の殺戮が連鎖の輪ひろげ
飢えと渇きと血まみれの死が大地を覆い
はるかに崩壊の音がこだましてきている

私はなにをしているのだ

 テロと報復戦争を「足もと」に置き換えて、「私はなにをしているのだ」と自問する姿勢に、詩人の本来の立場を考えさせられました。他人の、しかも国家という漠然としたものへの批判は、ある意味ではたやすいことなのかもしれません。とりあえず言論の自由が守られているわが国なら、なおさらのことでしょう。それで良いのか、と作者に問われている作品のように思います。
 まず「足もと」を見よ、その上で批判せよ。これが批評家と詩人の違いなのかもしれません。書き方もさることながら、己の思想そのものの点検を迫られる作品だと思います。



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