きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.6.16(
)

 市一斉の美化作業デーでした。年に2回ありますが、私は毎回参加するようにしています。自分の住む場所をきれいにしたいという気持もありますけど、本音は地域の人たちとの交流です。現在の場所に家を建てて10年を過ぎましたけど、万葉の頃から住んでいる人たちから見ればまだまだ新参者です。そのギャップを埋めるには、こういう行事に参加するのが一番です。参加しないとペナルティーとして2500円払うのが惜しいという気持もありますけど^_^;
 作業は大したことがなくて、担当の用水路周りの草刈程度なんですけど、皆さんとお話ししながらの作業というのは結構楽しいものです。病気の奥さんのその後を気遣ったり、異動後の生活を訊ねたり、それこそ生活に密着した話題ばかりですけど、この地域で皆さんに守られて生きているんだなという実感があります。会社と違って一生付き合う人たちですからね、こちらの意識も変ろうというものです。
 肝心の美化作業ですけど、与えられた3時間を持て余して1時間で終ってしまいました。いつものことですけど^_^; あとは家に帰ってシャワーを浴びて、ビールを呑んでオシマイ。休日の過し方としては充実していると言えるでしょうね。



詩誌『ノワール』2号
nowaru 2
2002.6.15 埼玉県新座市
田中眞由美氏・中村洋子氏発行 200円

 鳥葬/中村洋子

ようく焼いてね お願い
骨の形もなく灰になるまで
わたしの灰では枯れ木を芽吹かせるのはむり
海が望みだけれどべランダの菜園でもいい
撒いて 陽気な音楽にのせて

開墾地で祖母も父も火葬だった
三時間以上かかった祖母、父は一時間あまり
やわな わたしなら三十分であがりそう
海賊の子孫のような舅は土葬だった
わたしは少し羨ましかった

氷の峰々が遠景の山道を葬列がゆく
ある地点から遺体と数人を残して戻る
すこし先の開けた台地に運び
ひとりが笛を吹いた
ひかる氷山にとどくような澄んだ音
黒い点が空にあらわれ またたくまに鳥になって
そこらの岩に翼をたたむ

たくましい若者は鉈をふるって
遺体を刻みはじめた
鳥の喉をとおる大きさにする
ひとかけらも残らないことが
亡き人は立派に生きた証という
丁寧にことをすすめる若者は息子だろうか
わたしはとても羨ましかった

 事実かどうかは別にして、「遺体を刻」んで鳥葬にするという描写に驚きます。死者を弔う形態にも多様性があるということでしょうか。かなり具体的な表現ですので、実話なのかもしれませんね。
 それにしても、土葬や鳥葬を「羨まし」がり、自分の身は「ようく焼いてね」と願う、この作品はいったい何なんだろうと思います。己の死を考えるにはちょっと早い年齢ですのに…。焼くの時間がかかったり、鳥葬で「若者」の手を煩わせたり、そういういろいろな人に見守られながらの死を「羨まし」く思っているのかもしれません。「羨まし」がり方が「少し」から「とても」へ変わっていくことにも注目しています。



詩誌『刻』39号
koku 39
2002.3.25 茨城県水戸市
茨城詩人会議・高畑弘氏発行 350円

 痴呆と痴呆のあいだで/助川睦枝

吉野つつじは春一番
葉よりも先に桃色の花を咲かせる
ばばは その枝をぽきぽき折って
まだ地温の低い空地の黒い土に
差して歩く
突然地面に花が咲いて
「きれい!!」
と、つぶやく
子を育てあげ 夫を亡くし
空になった自分の心を満たすように
その姿は 波うちぎわに置きざりにされた
でこぼこの石に似て
捨てきれなかった執念が
ひっかかってころげない
波に流されるここちよさを知らない
まるくなれることを知らない
春一番に咲いた花にも満たされない寂寥を
まわりの者にぶつけてもてあそぶ
その自覚もなしに

 「痴呆と痴呆のあいだ」にいる「ばば」の行動を、「波うちぎわに置きざりにされた/でこぼこの石に」譬えている作品ですが、その喩が成功していると思います。「ひっかかってころげない」で、引き潮に石の回りの砂だけが持ち去られる様子が思い出されて、取り残された石の「寂寥」を思い描けます。作者は「まるくなれること」が「ばば」の幸福だと考えているようで、それにも納得させられます。老いの問題を「はば」というひとりの個を描くことによって、全体をも言い得た作品だと思います。



永野昌三氏詩集『ガリラヤ湖を越えて』
garariako wo koete
2002.5.25 東京都新宿区 思潮社刊 2200円+税

 もの について

眼は、見えないものを
見たがる。見るより先に
眼は、じかに裸でものにさわる。

ものは、そこに在る。
心あるひとだけが
見えて来る。

見えないものは、裸体の海。
眠ることのない
耳。
笑うことのない
魚の眼。
言葉を忘れた
舌の先。
振り返ることのない向日葵。
そして、永遠の死。

 著者が1989年にギリシャ、イスラエル旅行に行ったときのものらしい表題作「ガリラヤ湖を越えて」、「異邦」などが収められた詩集です。あとがきには「詩と信仰(文学と宗教)がどう切り結び得るかというテーマは簡単なことではない」とあります。その難しいテーマに真正面から取り組んだ詩集と言えましょう。
 紹介した作品は著者の思想の根源を成すものではないかと思います。見るということ、その対象となる「もの」をどう捉えているかが判り、詩としての言葉も洗練されている作品だと言えましょう。最終連の「そして、永遠の死。」というフレーズを拝見すると、結局そこへ落ち着くのかと唸ってしまいます。信仰心のない私でも考えざるを得ないフレーズだと思います。



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