きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.7.1(
)

 本日付けの異動者が1名、私のもとに来ました。39歳・男。高齢化したわが職場では中堅になります。とりあえず課の建物を5階から1階まで1時間かけて案内しましたが、疲れましたね。実験設備、解析装置をざっと説明しただけなんですけど、あれー? こんなにあったっけ? と思うほど多い。概略の機能と簡単な使い方だけの説明にしましたけど、ホント、疲れた。
 休憩時間に仲間に「俺はふだん無口だから、1時間も喋りっ放しだと疲れるヨ」とグチをこぼしたんですけど、誰も信用してくれなかったなあ^_^; 本当に無口なんだけどなあ。
 明日からは具体的な仕事の指導になりますから、もっと疲れそう…。マイペースでやるか!



沼津の文化を語る会会報『沼声』265号
syosei 265
2002.7.1 静岡県沼津市 望月良夫氏発行 年間購読料5000円

 たかが名簿の順番と言うなかれ/秋山庵然
 私の名前は姓名ともにアで始まる。小学校以来ずっとイヤなことが多かった。とくに出席簿順で一番のことが多かった私の体験は、なったことのない人には理解してもらえないであろう。
 イヤだったことの実例は宇数の関係で省略せざるを得ないが、去日私が診察を受けた女医さんの名前がやはり両方ともアではじまっていたので、失礼とは思いつつもこの件について尋ねてみた。即、「随分被害を受けました」との答が返ってきたから、あながち私一人の被害妄想ではあるまい。
 ところがこれと全く逆のことが英「エコノミスト」誌に載っていて驚いた。つまり、アルファべット順名簿の後半の人は不利益を被っていて、結果的に差別を生んでいるという。ABCなどの名簿順の早い者が有利であり、米国歴代正・副大統領はBとCで始まる姓が多いとか、G7首脳の六人までがB−Kで始まる姓であるという。

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 これは実はよく判ります。私の村山はペンネームで、本名は作者と同じ秋山です。名前まではアでありませんが、それでも出席番号はいつも1番。何をやるにしても1番にやらされてきました。別にそれで不都合を被ったということはなかったんですけど、嫌でしたね。それでペンネームを考えなくてはならないときに、絶対50音の後の方にしようと思ったわけです。今では後にいる気楽さを堪能しています。
 と、そこまでは「私一人の被害妄想」ではありませんよと応援できたんですけど、「エコノミスト」には驚きました。へえー、所によってはまったく逆に考えるんだと思いました。少なくとも日本ではそんなことは聞いたことがありません。いちゃもんをつけようとすると何にでもできるんだな、と変なところで感心してしまいました。



詩とエッセイ誌『橋』106号
hashi 106
2002.7.1 栃木県宇都宮市
橋の会・野澤俊雄氏発行  700円

 時間/冨澤宏子

  春が来たばかりのある一日
  芝生がわずかに青味を帯びてきたある一日
  古い字書を手にふと考えた

一日に三字、たった三字
十日では三十字、二十日で六十字
百日では三百字
三百日では九百字
三万字調べるには 一万日かかる
つまり二十七日と百四十五日
文学博士は約三十年も毎日毎日
漢字ばかりと付き合って
三万字収録した字書をつくった

数千円払うと 一瞬にして手に入れられる
その膨大な時間の蓄積
膨大な時間を費やした化学方程式も
理解さえできれば 瞬時に使える
あの複雑な回路を持つコンピューターでさえ
小学生にも操作できる
これは盗みでなくて何だろう

盗みの上に成り立っている現代の豊かさ
大漢和辞典の漢字の重なりの奥
ひときわ暗い部分に閉じこめられている
文学博士の一生
コンピュー夕ーの回路の交叉の狭間に
こびりついている考案者の血と汗

けれども
ほとんどの人はそのようなことには無頓着
お金を払いさえすればよいと思っている

道具になり果てたものにもはや
人間臭も人格もなく
その形見だけがあっけらかんと
何事もなく製品化されている

盗みに徹した文明社会の空を
今日もジェット機か飛び交う

  路地植えの
  冬期をたっぷりと耐え忍んだ球根の
  芽が伸びた
  芽の緑のさわやかさ

過去の偉大な実績によってもたらされた
膨大な時間の余剰を
安い金額で手に入れ
わたし達は
血と肉を抜き取った都会に
決壊したダムのように
膨大な時間の余剰を流し続けている

 最初はおもしろい発想をするなと思って拝見しました。文学博士が何十年研究しようが、それは商売上でのこと。私だって一私企業とは言え何十年も一技術屋としてそれなりのものを創ってきた。でも単なる商売上のこと。「数千円払うと 一瞬にして手に入れられる」のは当り前で、それに何万も何十万も乗じれば億の金になるんだから、そんなことは一々気にすることはないんだ。発想はおもしろいけど、それだけの作品なのかな、そう思いました。
 しかし「盗みの上に成り立っている現代の豊かさ」というフレーズでハッとしました。まとまった数で考えれば億の金になるかもしれないけど、個人にとっては「数千円」。仮に一冊しか売れなくてもやっぱり数千円だろうな、そうすると「盗み」と言われても仕方ないのかもしれない。そう思えるようになったのです。
 さらに「膨大な時間の余剰を流し続けている」というフレーズではギクリとさせられました。一人の文学博士の、あるいは研究者の犠牲≠フ上の「過去の偉大な実績によってもたらされた/膨大な時間の余剰を」私たちは何に使っているかというと、無駄にしているにすぎないのではないか、と指摘されたのです。これには参りました。言われてみればその通りで、何か社会に還元しているかと考えると、まともに答えられませんね。おもしろいどころではなく、痛烈な批判だったのです。文学博士や立派な研究者には及ばないまでも、自分なりに社会への還元を考えた生活をしなければな、と反省させられた作品です。



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