きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.7.4(
)

 会社をサボって、何と「東京宝塚劇場」に行ってきました。私は演劇分野が弱く、宝塚も歌舞伎も観たことがないんです。そこに、娘が行っている高校のPTAがイベントのひとつとして宝塚に行くというものですから、思わず手を上げてしまったのです。行ってみて、勉強になりました^_^;
 星組公演ということで「プラハの春」「グランド・レビュー」を観ました。当り前ですけど、出演者はすべて女性。客席も9割は女性。女性が好きな私もさすがに圧倒されましたね。
 「プラハの春」は史実ですから、ああ、そんなもんかなという感じ。「グランド・レビュー」はまあまあ想像していた通りで、正直なところは宝塚に行ったことがあります、と言えるようになったことがうれしい程度かな? そんなことを言うとファンには怒られそうですけど、まあ、無粋な男のたわ言と受取ってください。ラインダンスの脚はさすがでした^_^;



詩と批評誌『玄』53号
gen 53
2002.6.22 千葉県東金市
玄の会・高安義郎氏発行 1000円

 本の虫/鬼島芳雄

道楽もいろいろだが
蒐めた本は「汗牛充棟」
思案の揚句 神田の古本屋を呼ぶと
あの全集もこの全集も
ごっそり持っていった
古本屋のなぜ?との問いに
もう読み返す時間が無いと答える……
人生二度あったらと虫のいいことを考える
それにしても
若者が文学書を読まなくなったと本屋は歎く

空っぽになった書架を眺めて
虚ろになった胸のうちを暮の風が吹き抜ける
一人娘を嫁がせた寂しさと
かたづいたという安堵

 浅学にして「汗牛充棟」が判りませんでした。辞書(Microsoft/Shogakukan Bookshlf Basic)によると、カンギュウジュウトウと読み、ひっぱるには牛馬が汗をかき、積み上げては家の棟木まで届くくらいの量の蔵書があること、だそうです。さて、我が家は…。半分を実家に運んでありますけど、合わせて1万冊ぐらいでしょうか、それほど多くはありません。自慢は、その半数以上が善意の贈呈本だということでしょう。
 いずれにしろ「本の虫」というのは困ったものです。私には「一人娘を嫁がせた寂しさと/かたづいたという安堵」という感情を味わったことがありませんけど、いずれ「もう読み返す時間が無いと答える……」時期が来るはずです。そのときに作者と同じように達観できるか…。自信はありません。
 今号では他に広木圭氏「雨」、飯嶋武太郎氏「臥牛の独白2」、高安義郎氏「坂道」などの作品に惹かれました。



詩と詩論誌『新・現代詩』5号
shin gendaishi 5
2002.7.1 横浜市港南区
新・現代詩の会 出海渓也氏発行  850円

 えんぴつ/李 美子

喫茶店の卓の上には
ナプキンの束と並んで
一本のえんぴつがおいてあった
「お客さまの声カード」に添えられ
尖った芯はいま削られたばかりのようだ
何度もお茶を飲んでいるのに
ある日 やっと気がついた
(自分のぺンをうっかり忘れてきたから)
薄茶色のそのえんぴつをにぎってみた
背には「三菱 リサイクル鉛筆」
何とやわらかな書きごこち
だが 匂いがない
えんぴつにも匂いがない

母が鉛筆を手にするのは
月に一度
小学生のわたしがおともをして
空襲をまぬがれた長屋まで歩く集金日
わたしは字の書けない母の小さな助手
さびしい夜の道みち
母に約束をわすれないでとくりかえした
(発売中の「少女倶楽部」を買ってもらう)
かすかな灯りが洩れている家に着くと
母は手提げから「国語」の帳面を開いて
住人たちの目の前に
升目いっぱい黒ぐろと丸を描いた
はい たしかにいただきました
そしてつぎの集金まで
母のちびた鉛筆は
薄汚れた帳画とともに
手提げにしまわれた

 鉛筆に対する思い出が「匂い」を介在して表出されています。「母のちびた鉛筆」の時代には、確かに匂いがありましたね。今の鉛筆に匂いがあるかどうか確認しようとして、私の机には鉛筆らしい鉛筆が入っていないことに気付きました。シャープペン、ボールペンばっかりです。まごまごするとそれさえも使われていません。パソコンで入力して、それをプリントアウトして方が速いからですね。
 「わたしは字の書けない母の小さな助手」というフレーズには胸を打たれます。李さんと私はほぼ同年代ですから、母親同士も同年代だろうと思います。朝鮮の人たちを強制連行した結果でしょうか。もしそうなら、日本人としての私には言うべき言葉がありません。わずか1行に大きな問題をはらんだ作品だと思います。
 今号では他に伊藤眞理子氏「花を買う日」、こたきこなみ氏「あとは知らない」、永井ますみ氏「知られない木と土の関係」などの作品に注目しました。



詩誌『饗宴』32号
kyoen 32
2002.7.1 札幌市中央区
林檎屋・瀬戸正昭氏発行 500円

 海を抱きしめて/村田 譲

お母さんが出ていった
帰ってこないと言って
いつもの車に洋服をつめて
わたしを乗せてはいかなかった

お父さんが帰ってきて
電話をかける
調停委員に小声で
連れ子をどうすればいいのか、と聞く

妹は誕生日をばあちゃんの膝ですごす
わたしは
お父さんの携帯番号を押す
わかった、と言って切れる

クローゼットのなかに積みあげた布団
狭間をつくってもぐりこむ
こんなに暖かい毛布を
持っていかなかった、ね
ミルクをねだる妹だけが
つながり
お父さんのばあちやんとじいちやんが
抱きしめる泣き声

これからは一人でねる
もうお母さんの匂いがしない

 まったくの創作として拝見しました。「わたし」は5歳くらいの女の子でしょうか。「連れ子」なのかもしれません。「お父さんのばあちやんとじいちやん」に「ミルクをねだる妹だけが/つなが」っているという設定だろうと思います。最終連とタイトルが非常によく効いている作品で、家族について考えさせられました。
 もうひとつの観点は自立ということでしょうか。ある意味では不幸な境遇と言うことになりましょうが、最終連に個の自立を感じます。いずれ子供は自立しなければならない。それが早いか遅いかということは大きな問題ですが、大人になったときを考えるとどちらがよかったかは簡単に判断できないことだと思います。人間の生き方についても言及している作品だと思います。



詩と童謡誌『ぎんなん』41号
ginnan 41
2002.7.1 大阪府豊中市
ぎんなんの会・島田陽子氏発行  400円

 車の目/萬里小路 万希(8歳)

車には目がある
三角の目 四角い目
おこった目 ないてる目
わらってる目 なやんでる目

日曜日の 帰り道
みんな ならんで つかれた目

 子供の詩というのは本当におもしろいと思います。運転しているパパさん、ママさんの目がそのまま車の目になっているんですね。それを敏感に感じ取る万希ちゃん8歳。うーん、すばらしい!


 休日/すぎもとれいこ

そぎ落とされた
山肌の前で
ショベルカーが三台
並んで頭をたれている
山に向かって
「ごめんなさい。」と
あやまっている

 こちらは大人の作品ですが、視線が新鮮ですね。ショベルカーに罪はなくて、使う側の人間が問題なんですけど、人間に代わって「ごめんなさい」。痛烈な批評精神を感じる、と言ったら作者の意図を越えてしまうでしょうか。私が開発反対闘争に立っていたら、立看板に使わせてもらいたいような力を感じます。



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