きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.7.13(
)

 日本詩人クラブの7月例会が神楽坂エミールでありました。今月の講演は入沢康夫氏の「私と出雲」。入沢さんの詩集は1977年刊行の『「月」そのほかの詩』しか持っていませんが、有名な詩人ですからね、興味津々で聴きました。なかなかおもしろかったですよ。出雲出身ということですから、「出雲國風土記」なども引用しながらの講演で、出雲の国引きの話が特に印象的でした。祝詞、まではいきませんでしたけど、漢文読み下しの朗読はさすがでした。いっぺんに「出雲國風土記」を読んでみたくなりました。

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入沢康夫氏

 東大仏文卒で、読売文学賞や高見順賞の受賞者ですから、紹介してもらった自作品は論理的で、かつ感覚的で、さすがだなと思いました。質疑応答の時間では、それが気に入らない、もっと庶民の立場の作品を書く気はないのか、なんて意見も出ましたけど、それは無いものねだりだろうと思います。庶民派だろうが学者肌だろうが、その人の置かれた立場や生きてきた境遇でしかモノは書けないだろうと思うのです。我らが書けないことを入沢さんがやっていることを認めて、入沢さんが書けないことを我らが書くしかないだろうと思いますね。相手を否定しない、相手の作風を認めて、その上で自分は違うものを書く、それが本来の詩人の立場だろうと思うのですが…。ちょっと綺麗事すぎるかな? まあ、いろいろ考えさせられた例会でした。
 いつもの二次会が終って、三次会は会友の女性と「竹ちゃん」へ行きました。誰か一緒に来るかなと思ったんですけど、誰も来ない。結局、二人で3時間ばかり話し込んじゃいました。彼女の第一詩集の話やら詩壇の様子やら、それはそれで意義があったと思いますが、それだけ。若い女性を前にして、オレも色気が無いなとつくづく思いましたね。もっとも、どちらかと言えば彼女の親に近い年齢だから、それも当然だと納得しています^_^;



詩誌『鳥』2号
tori 2
2002.7.15 東京都中野区
菊田守氏発行  340円

 線香花火/金井節子

正午近くかならずやってくる雀のひと群れ
ざっと数えて二十羽ほどのときもあれば
目を見張る大軍のときもある

こんもり繁った常緑樹の
中側の小枝は網目のように張っていて
雀たちのためにその中に吊しておく竹ざる
ざるの中の刻んだパンの耳 残りごはん
水気のなくなったりんごやみかん
残らずたいらげる
姿はみえないがうれしそうに
そのにぎやかな雀たちの食事は
まるで次からつぎへ線香花火を灯すようだ

には子はいないから
おばあちゃんと呼ばれて線香花火を
一緒に楽しむ孫もいない
けれど雀たちは私の庭にやってきては
毎日 線香花火を灯してくれる

 雀の姿を「まるで次からつぎへ線香花火を灯すようだ」と表現するところに新鮮さを感じます。毎日、餌を与えるなどして雀に愛情を持っているからこと出てくる言葉なのかな、と思います。最近は私の住んでいる田舎でも田圃は少なくなり、昔のように雀に米を食べられるというようなことは聞かなくなりました。それでも害鳥というイメージは残っています。作者のお住いになっている都会では、そんなこととは関係なく、一野鳥として見ているのでしょうね。そんな田舎と都会の違いも考えさせられた作品でした。



詩・創作・批評誌『輪』92号
wa 92
2002.6.25 神戸市兵庫区
輪の会・伊勢田史郎氏発行  1000円

 仕事/倉田 茂

歳末です いつものように
やり残した仕事が気になります
書けずじまいの手紙さえ溜まって

人はやり残した仕事を両手に抱え
きっと 一生を終えるのです
大きな最後の夢を見ながら

夕陽が燃えて
遠くの窓にも 目の前の窓にも
最後の夢を見た人が映っています

やり残した人生でしようか
いいえ 人生は夢の量です
悔いはありません 豊かな日々でした

 最終連がいいなと思います。「いいえ 人生は夢の量です」というフレーズには思わず胸が熱くなりますね。「やり残した仕事」にいつも追いかけられているような気でいる私には、とても救いになる言葉です。なかなか、こういう心境には至りませんが、励まされるように思います。人生を達観できないと、この作品のような詩は書けないんだろうなとも思います。書けるようになりたいですね。



詩誌『燦α』16号
san alpha 16
2002.8.16 埼玉県さいたま市
燦詩文会・二瓶徹氏発行 非売品

 雨音/さたけ まさこ

夜ふと目覚めると
雨が降っている

やさしい雨音
わたしは雨音が好き

子供の頃
草むらにしゃがんで
傘の中で
こっそり聴いた雨音

東京で一人暮らしをはじめた頃の
ちょっぴり心細い夜の雨音

娘を産んだ夜
産院で聴いた雨音

そして
わたしの家族の寝息に囲まれて聴く
雨音

あわただしい暮らしの中で
そっと自分をとりもどす時

 私も雨音は大好きなので、文句なくこの作品に惹かれますね。「子供の頃」から現在の「家族の寝息に囲まれて聴く」時代まで、作者の中で雨音が重要な意味を持ってきたようにも感じます。いつの時代の雨音も「そっと自分をとりもどす時」だったのでしょうね。
 やはり女性だなと思ったのは第3連です。子供の頃から雨音が好きだった私でも「早むらにしゃがんで/傘の中で/こっそり聴」く、なんてことはしなかった。こういうところに女性らしいものが現れるのかな、とも思いました。「雨音」を7回も出さないで、もう少し整理するともっと良くなる作品だとも思いました。



季刊詩誌『青空』創刊号
aozora 1
2002.7.30 茨城県水戸市 米川征氏発行
非売品 

 木のものがたり/米川 征

木は男
花は女か

花の散ったあとの
空を見上げる

花びらは羽衣
消えた女は、天女か

花のあとに
青い実が残されて

俺は子持ちの
寡夫さ

 最終連で思わず笑ってしまいました(失礼!)。そうかもしれませんね。女は花と咲きほこり、子を成したあとはさっさと消えてしまうのかもしれません。まあ、現実にはそんなことはなくて、女性は一所懸命子育てをしてくれていますが、そういう見方もあっておもしろい、という作品でしょう。作者の自由奔放な発想に着目すべき作品だと思います。



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