きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.7.19(
)

 私が世界で初めて開発した(と思っている)測定機の、付加装置が納入されました。測定機そのものは理論通り(実はどんな理論なのかはまだ未検証)のものですから、実に使い難い。それを少しでも使い易くしようとして付加装置も開発しました。実際には自分の頭の中にあるイメージを機械加工メーカーの設計者に述べて、彼に図面を起してもらっていますから開発≠ネんて言葉はおこがましいんですけど、図面の承認さえ与えれば通ってしまうという、何やら役所的な業界ではあります^_^;
 一応、初期の目的は達成していましたので納入可としましたけど、オレの仕事のやり方もずいぶん地に落ちたものだと思いますね。以前なら汚いなりにも図面とも呼べないマンガを書いて、メーカーの設計者と議論して決めていたものですけど、最近は口頭だけ。提出された図面をふんぞり返って見て、良いか悪いかを口頭で伝えるだけ。自宅の建築許可を取りに業者と県庁に出向いたことがあったけど、県庁の担当者は今のオレとそっくりで、許可・不許可を言うだけでした。もっとも自宅というプライベートなことでしたから、県庁の役人が自宅の設計図を書くわけもなく、当然のことでしたが、どうも、あのふんぞり返った態度だけが記憶されたようです。
 こういう時代ですからメーカーの方も必死で、たとえ10万20万の仕事でも忠実にこなしてくれます。それに甘えないことを肝に銘じているつもりなんですけど、どこかでボロが出ているでしょうね。誠実な仕事というものをもう一度初心にかえって考えろ、と言い聞かせています。ちょっと臭い話かな^_^;



司茜氏詩集『番傘をくるくる』
bangasa wo kurukuru
2002.7.12 京都市右京区 洛西書院刊 2000円+税

 流れ星

お正月の宴もたけなわ
私もお酒がはいって
体がふわふわ
その上
久しぶりに帰ってきた
孫が
膝にいるものですから
なおさら
ふうわり ふわふわ

 ねえ ママはべっぴんさんやねぇ
 うん!
 おばあちゃんは どう?
 うーん おばあちゃんは ペんぎんさーん
 あかんべぇー

ああ あ
走っていってしまいました
 *
 君が 年頃といわれる頃には
 も少しいい日本だったらいいが
 なにしろ今の日本といったら
 あんぽんたんとくるまばかりだ

 と孫の若葉ちゃんに書いたのは金子光晴
 私の孫の名は 大倉光晴

おまえが 世帯を持つ頃
地球も日本も
今よりも良くなるようにしなければ

アレッ
はやく はやく
みつはる
流れ星だよ!
ほんとうよ

 
*金子光晴詩集『若葉のうた』より

 著者の第2詩集です。帯文で脚本家のジェームス三木さんは「ぬかみその中に手を突っ込んで、宝石をつかみだす。ほらみてごらんと、いたずらっぽく笑っている。油断のならない詩人だ。」と書いています。まさにそのような詩集と言えるでしょう。
 紹介した作品は「流れ星」の使い方が巧みだと思います。死んでしまった金子光晴とこれから生きていく孫、その双方をうまく結びつけた言葉で、「あかんべぇー」をした孫に「ほんとうよ」と擦り寄るところが何とも微笑ましく写りました。光晴の詩も奏効していると言えましょう。「べっぴんさん」「ペんぎんさーん」も躍動的で、子供の感性に改めて驚かされている次第です。



詩誌『すてむ』23号
stem 23
2002.7.25 東京都大田区
すてむの会・甲田四郎氏発行 500円

 贋物のランク/松尾茂夫

B4の書類が収納できそうな布製の鞄
使いよさそうだというと
要るならあげるよと次男が応えた
インターネットのオークションで同じサイズを落札したそうだ
有るが上に何故買ったんだと訊くと
これはブランド品の贋物だ 高級なのを買ったという
じゃあ本物かと尋ねたら もっとハイクラスの贋物だと応えた
ディオールとかエルメスとか
人の名前を宣伝しながら歩く趣昧はない
ときどき瓜二つの鞄がふたつ玄関先に並んでいて
高級志向の息子もときどき間達えそうになる
しかしこの鞄 使い勝手は本物だ

 「贋物」と「本物」について考えさせられる作品ですね。もちろん著作権法から言えば贋物は悪いに決まっていますが、ディズニー社の横槍によるらしい米国の著作権期限延長を見ていると、ちょっと考えさせられます。著作権者を守るか、国民に利便性などを早く与えるか、議論の別れるところでしょうけど、インターネット到来によって議論の時期に差しかかったことだけは確かです。
 贋物であろうが本物であろうが「使い勝手は本物だ」と言えるなら、消費者は安い方を選ぶのが当り前。翻って、贋物の詩人・本物の詩人とありますけど、消費者が必ず「使い勝手の本物」を選ぶかというと、これはちょっと疑問ですね。詩人を贋物・本物で区別すること自体が無理な設問なんですけど…。そんなことまで考えさせられた作品です。



阿部堅磐氏編集『研究紀要』28号
kenkyu kiyou 28
2002.7.15 名古屋市千種区 愛知中学・高等学校発行
非売品 

 阿部堅磐さんによる「詩歌鑑賞ノート」は「笠原三津子の詩」でした。1976年に刊行された笠原さんの昭和詩大系『笠原三津子詩集』についての論考です。『笠原三津子詩集』は第一詩集から第六詩集までの網羅ですから、笠原さんの初期の詩業を論考するには最適な詩集と言えます。
 笠原さんのご先祖の紹介から始まる論考は非常に参考になりますね。祖母上、母上と和歌を能くしたと紹介されており、笠原さんと面識もあり、作品もある程度拝見している私には納得できます。私なりの詩人・笠原三津子像というものがありますけど、阿部さんのご覧になる笠原像とは重なるところも多くありますが多少の違いもあって、そこがおもしろい。他人様の「鑑賞ノート」を拝見するというのは、実は己の鑑賞の検証でもあるのだなと思う次第です。
 その他では、井上静和という先生が「日本史授業−戦後・新教育からの脱却について(一)−」という論文を発表なさっていて、これもおもしろく拝見しました。GHQの戦後占領政策の一環として現在の教育基本法が制定された経緯があるのはご存知の通りですが、「日本側(教育刷新委員会、文部省)の自主的な法案作成である説と総司令部民間情報教育局による一方的押しつけられた説の2説がある」と紹介し、「が、私はどちらとも言いがたいという説もつけるべきではないだろうか」と提案しています。米国で現在まで情報公開された資料をもとににした論文は説得力があります。今回は(一)ということですから、続編が準備されているのでしょう。阿部堅磐さんの「詩歌鑑賞ノート」とともに楽しみな論文になりそうです。



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