きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.7.27(
)

 第177回「KERA(螻)の会」が新宿で行われました。今回は詩と批評誌『鮫』代表の芳賀章内氏によるレクチャー「モダニズムを読み替える」。世界文学史における一般的な意味から、英国のモダニズム、日本モダニズムと幅広く、かつ中身の濃いレクチャーでした。文化の頂点を誇るフランスには、他国がフランスの文化に追い付こうとしているだけだとして、モダニズムという言葉は使わないそうです。英国は発祥の地ですから強烈にモダニズムを言い、日本はアバンギャルドやシュールリアリズムも含めた運動・形態をひっくるめてモダニズムと称しているなど、なかなか鋭い分析でした。
 さらに日本モダニズムを解体し、かつ継承していく鍵は「無意識」をいかに取り入れるかだ、という説には説得力がありました。私の中でモヤモヤしていたものがひとつフッ切れた気分です。もちろん2時間ほどのレクチャーで理解できることではありませんけど、考え方のきっかけを与えてくれたことは確かです。いい勉強をさせてもらいました。

 いつものその後呑み会になるんですけど、今夜はパス。スケジューリングが悪くて、夜の部を入れてしまってあったんです。でも、こちらも良かったですよ。先週に引き続いてシャンソン歌手・金丸麻子さんのライブに行って来ました。西麻布の「ナイトトレイン」という店で、結城麗菜さんとの「スペシャルジョイントライブ」。奥山まさしバンドというバックで、ギター・シンセサイザー・ベース・ドラム・トランペットと、狭い店いっぱいの音も堪能できましたね。

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熱唱する、左:金丸麻子さん、右:結城麗菜さん

 結城さんという女性はコスタリカ出身だそうで、ハーフかもしれません。金丸さんに言わせるとダイナマイト・ボティー=Bその通りでした^_^; 歌の合間のおしゃべりは金丸さんの方がうまいけど、清純そうなイメージで、いい歌手に育ちそうです。
 それにしてもバンドも良かったなあ。生の音はどうしてこうも身体を突き刺してくるのかと思いますね。そうそう、いい詞もありましたよ。歌のタイトルは忘れましたけど都会には影がない≠ニいうようなフレーズが入っています。もうひと言ふた言、いい言葉も入っていて、思わず身を乗り出してしまいました。いずれまた、出会えるかな?



詩誌『天秤宮』17号
tenbingu 17
2002.6.20 鹿児島県日置郡吹上町
天秤宮社・宮内洋子氏発行 1000円

 死体に触る/宇宿一成

医学祭恒例の
病理展・解剖展を
ジャーナリズムは非難した
ホルマリン漬けの
胃や心臓の展示が
遺族の了解もなしに行われることは
故人に対して不謹慎だというのだ
この展示は
一般の人が
死んだ人の臓器に触れる
ほとんど唯一の機会であった。
死んだ後の臓器にまで
人格があるというのか
生命への冒涜だなんて
口蹄疫で焼き殺される牛が笑うぞ。
臨終を過ぎて
自分に責任を持てる者があるだろうか
触ってみればわかる
臓器はもはや物体であって
個人をはるかに超えている
切り捨てられた爪の先や
散髪されて散らばった髪の毛に
いかなる尊厳があるというのだろう
触らないから
触らないでいて頭だけで考えるから
誤解するのだ
(君が骨だけになっても君を愛する)
と言うことはできる
これは観念だ
骨という物体を君と呼んで愛せる訳ではない
こんなことも
解らない社会だから
癒し、なんて概念だけの言葉が売れるのだ
人は物質である
人は脳に支配された臓器の集合である
臓器と連絡し合いそれを統御する神経系統が
人格や尊厳の基本なのだ
切り離された臓器に尊厳は無い
切り離された脳に人格は無い
生きていると
目と耳と
頭ばかりが大きくなって
触る手は不足してくる
臓器として分離された人体に触り
探りあるいは手ずから引き裂き
死を迫及することで
はじめて見出される
生の尊厳があるというのに

(数年前、マスコミの批判を受けて鹿児島大
学医学部の教授会は病理展・解剖展の中止を
決定した。その後この展示が再開されたかど
うか知らないが、再開されなかったとしたら
鹿児島県民は死者に直接触れるというまたと
無い貴重な機会を失ったことになる。中止や
むなしのきっかけを作った地元新聞仕はこの
ことにどう責任をとるのか〉

 非常に難しい問題で、私自身はきちんとした結論が出ているわけではありませんが、考える良いきっかけになればと思って紹介します。詩としてもこういう作品は今まで公表されたことはないと思います。
 「人は物質である/人は脳に支配された臓器の集合である/臓器と連絡し合いそれを統御する神経系統が/人格や尊厳の基本なのだ」というフレーズは賛成です。私も以前からそう思ってきましたし、現在も変りはありません。「切り離された臓器に尊厳は無い」ということでは、生前の母の心臓弁膜を見せられたことがあって、そのときは確かにそう思いました。しかし、それはあくまでも生きている母の手術後の弁膜です。母の死亡後の臓器は当然、見たこともありません。ですから、死亡後の臓器ではどう感じたか、今は何も言えないのが現実です。
 この作品からは、なぜ「ジャーナリズムは非難した」かが詳しく判りませんから、憶測で言うことはできませんけど、考えなければいけない問題だろうと思います。



詩誌24号
toh 24
2002.5.30 石川県金沢市
祷の会・中村なづな氏発行 500円

 げんぴん
 玄 牝(深遠なメス)/宮内洋子

女の上で命果てた男
ラグビーボールの形をした
心のかたまりは
五秒間で
元のポジションに還っていった
男の心が抜けた肉体は
女に名残りを惜しむかのように
のっそりと心の上にかぶさった
そのあと
十カ月間
男は胎児に変わり
女の腹の中で
へその緒の点滴につながれていた
羊水の中の男児は
母体となった自分の女に
手足をばたつかせながら甘え
時々は眼を見開き
次なる世界を見ようとするのだった

母の声を外界から聞きながら
おぼろげに
胎児化していく肉体の行く末を
夢想した
羊水の波打つ鼓動に
肩をそびやかしては
男の中の男といわれていた
裟姿
(しゃば)の思い出にひたっていた
とうとう男は
娘達が十ヵ月過した事のある
子宮の中から
絞り出されて
未知の世界へ送りこまれた

 
 玄月になると
  腹をえぐって
   ラグビーボールを 掴み出す

 
※旧暦の九月

 タイトルの「玄牝」には意味が添えられていましたけど、私なりに調べてみました。玄牝という言葉は無いようです。しかし玄には深遠という意味があり、合わせると註釈は間違っていないことが判りました。その他に天という意味、旧暦九月という意味もあることが判り、玄月の註釈へと繋がることも理解できた次第です。
 作品は、以前拝見した詩集『ツンドラの旅』『陸に向かって』でも感じたことなのですが、視点が新鮮で驚きます。しかし、この作品はちょっと読む上で注意が必要だと思います。作品上からの印象なんですが、作者の夫君は亡くなっていると思います。そういう観点で読むと、「女の上で命果てた男」「子宮の中から/絞り出されて/未知の世界へ送りこまれた」などのフレーズは、かなり意味の深い言葉だと判ります。夫君については私の読み間違いの可能性もありますし、そういう現実的なことから離れて、作品は作品として読むべきだという意見もありましょう。ただ、事実云々を別にしても、読者としてはそういう視点も必要かなと思います。男をあしらった詩とも読めるし、夫君への鎮魂歌としても読めると思うのです。いずれにしても重い作品と言えるでしょう。



総合文芸誌『中央文學』459号
cyuo bungaku 459
2002.7.25 東京都品川区 日本中央文学会発行
300円 

 お墓に帰るまで/寺田量子

〈もういなくならない? お墓に帰らない?〉
退院した私にそう言ってはしゃいだ幼い日
その姪が 先にお墓に帰ってしまった

髪をカットし おふろに入り 振りかえってにっこり肯いた顔
そのあと 真夜中めざめてなぜか気になり
見に行くと 倒れていて 何の反応もなかった
運ばれた救命センターでも 生きている証は何も見つけられなかった。

釈妙理信女というふしぎな名
三年前になくなった 生きていたときは あまりなじまなかった父と
いまは中むつまじく暮らしているだろうか

笑って坐っていた椅子
ぐっすり眠っていたべッド
いつも持っていたポシェット
話し合った計画
家の中にも 街にも どこにでも残るかたみ 甦る記憶
に お墓に帰るまで 堪えてゆくしかないのだろう

 姪御さんを亡くされたお気持がにじみ出ている作品だと思います。「お墓に帰る」という意識もすごいものですが、「生きている証は何も見つけられなかった」という認識もすごいものです。不謹慎な言い方かもしれませんが文学者の見る死というものを考えさせられる作品です。
 それにしても「家の中にも 街にも どこにでも残るかたみ」というのは辛いですね。肉親を亡くして初めて判る感覚かもしれません。



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