きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.9.11(
)

 米国同時多発テロ1周年。1年前の今日は世界が変った日として記憶されますが、自分の中でのこの1年、何が変わって何が変らなかったか、正直なところ何もつかめないままでいます。日本が米国の属国となりつつあるのだけは確かでしょう。アメリカ合衆国日本州と言ったら言い過ぎでしょうか。若い人は意外とそういう感覚でいる人も多いように思います。

 新職場での歓迎会がありました。以前の職場は60人ほどいましたが、新職場は40人ほど。ちょっと規模は小さくなりましたけど、その分まとまっているような印象を受けました。技術職と品質管理職という違いのせいか、おとなしい人が多いようです。他人様の仕事の評価をするわけですから、身を律するという態度が身についているのかもしれません。さて、私の性に合うかどうか。意外に合うような気もしています。
 でもお酒はガンガンいきましたよ。全然、身を律しませんでした^_^; 二次会も23時まで付き合って、すっかり職場の一員としての地位を確立したつもりです。呑ン兵が多そうで、これからそちらも楽しみです。



隔月刊詩誌
『サロン デ ポエート』
239号
salon_des_poetes_239
2002.8.30 名古屋市名東区 滝澤和枝氏発行
非売品

 さ ゆ り
 小百合に/高橋芳美

ぷるるんと皮をむいた
桃のような頬をして
小百合は 笑っている

輝いている頬は
遥かなところから
木々をゆらし
みちあふれる刻
(とき)
ゆるやかにゆする

小さなげっぷ
小さなおなら
うろたえるほどの泣き声
今を生きてる出来たての
なんと愛らしいことよ

ひらいたあどけない瞳に
わたしはそんなに期待はしない
それは
あなたのお母さんを育てゝ
よく知っているから

小百合よ
歌いながら
すこやかに
育ってほしい
微笑んでいるしぐさの
小さな握り挙の中に
願いごとのように
私の魂
(こころ)をそっとしのばせておこう

 お孫さんなのでしょうね。赤ん坊の可愛らしさを余すところなく表現した作品だと思います。「うろたえるほどの泣き声」に、私も久しぶりに子の泣き声を思い出しました。
 4連目は、よくぞ書いたという思いです。実際には娘さんは優秀な人なのでしょう。でもそう書いては作品として成立ちません。己を、身内を低い位置に置いてこそ作品として成立つのだと思っています。唯一、高みに置いて許されるのは赤ん坊なのかもしれません。そこを作者はちゃんと判っていて、この作品が仕上ったのではないでしょうか。お孫さんやお子さんのことを書くと、どうしても甘くなるものらしいのですが、抑えるところは抑えた佳作だと思いました。



詩誌『花音』21号
kaon_21
2002.9.1 大阪府池田市
花音舎・片山礼氏発行 200円

 独白・1 ----詩人O・Hに/片山 礼

この世があまりに濁っているので
息をするのも苦しくて
ひとは清らかな流れに顔をつけたくなる

けれどほんものの清流のなかで
生きていける種は
ごくわずか

僕はまだこの世にいる
今日からは
思いきり不遜な一匹の魚になろう

 女性3人の詩誌で、前号から御寄贈いだくようになりました。前号はいしださんの特集でしたが、今号は片山さんの特集。作品7編のうちの冒頭の詩です。なかなか良い視点をお持ちだなと思います。特に第2連はすばらしいですね。清濁合わせ飲むべき詩人は「ほんものの清流のなかで/生きていける種」ではないと思います。ですから「今日からは/思いきり不遜な一匹の魚になろう」というフレーズは、詩人として生きる決意を述べているように思えてなりません。最近、10年ぶりに詩集を出版なさったようで、その近辺の作品と拝察します。ますます充実した活動をしていく詩人と思います。



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