きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.9.14(
)

 日本詩人クラブの9月例会が神楽坂エミールで開催されました。新会員コーナーは庄司進・房内はるみ・丸山乃里子の3氏。日本詩人クラブ新人賞受賞者による「私の詩の現在」は、第6回受賞者の草野信子氏でした。そして講演は粟津則雄氏の「象徴主義の詩法−マラルメとバレリー」です。

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仏文で韻を解説する粟津則雄氏

 私は大学で国文なり仏文をきちんと勉強してきたわけではなく、独学で詩らしきものを書いてきたに過ぎませんから、こういう授業≠ニいうのは、かなり苦手なんです。しかもフランスの象徴主義。一番苦手な分野に入ってしまったな、理事という職責がなければ出席しないのになと、ひとりごちていましたけど、意外や意外、結構おもしろかったですよ。写真のようにホワイトボードに原文を書いて、韻の説明などもやってくれて、判らないなりに多少は理解できたつもりでいます。粟津先生はぶっらぼうな人で、とっつき難い印象なんですけど、こういう行動を見ていると、理解してもらおうと努力する人なんだなと思いました。アポリネールから始まる近代フランス詩の体系も教えてもらえて、良かったと思います。ついついロートレアモンあたりをうろつくに過ぎない私ですが、マラルメやバレリーもおもしろそうですね。そういうきっかけを与えてくれた講演だと思います。



詩と評論・隔月刊『漉林』109号
rokurin 109
2002.10.1 東京都足立区
漉林書房・田川紀久雄氏発行  800円+税

 ハトが三十羽ほど/遠丸 立

川の流れに沿うた道
傍らに小学校がある
立ち止って空を仰ぐ
ハトが三十羽ほど
碧空 あざやかに楕円をえがいて群がり飛ぶ
繰り返し繰り返し旋回
一周ごと旋回は軌道は多少ちがう
すこしづつちがいながら
川の頂上 楕円をえがいて飛びつづける

リーダーが一羽いて
ほかのはそれに倣っているのか
一糸乱れぬ群舞

統率 服従
指導 被指導
有無を云わせぬあの図はなんだ?
前後左右 ハトとハトがぶつかることはない
一羽と一羽 距離は一○センチぐらい
横並び そして前後左右の距離を
一○センチに保ちながら 等速度
飛びつづける能力はスゴイ
空中円舞をえんえん繰り広げるハト

秋晴れの午後
ハトが三十羽ほど
碧空 神技を公開している
仙川 給田
(きゅうでん)の青空劇場
世田谷一家四人殺害事件の現場から
遠くない川辺で

 最終連の最後の2行ですべてが判り、その2行にすべてが収斂していくすばらしい作品だと思います。ハトの「一糸乱れぬ群舞」に人間社会を類推させ、そこからはみ出したものとして「世田谷一家四人殺害事件」を象徴させることもできるかもしれません。いやいや、そんな無粋な解釈は不要でしょう。「ハトが三十羽ほど」飛んでいる風景として鑑賞すればよいのかもしれません。「碧空」のもとで人間が何をしようと、生物の歴史としては意味のないこと。そういう見方もできるかもしれません。印象の強烈な作品ですが、作者は読者への強要はしていないように思えます。



詩の朗読研究詩誌『見せもの小屋』40号
misemono goya 40
2002.10.1 東京都足立区 漉林書房・田川紀久雄氏発行 500円+税

 吟遊詩人になろう/田川紀久雄

詩人が集まれば
詩の朗読が行われる
それも
とびきり上等な朗読が
人々は泣き笑い
新たな人生を共有し合う
詩人たちよ
一人一人が吟遊詩人になろう
眼の前に絶壁の淵に佇んでいる人がいる
何の未来も抱くことが出来ないで時
(いま)を失っている人が
そんな人達に
一滴の精水を与えることが出来るように
素晴らしい詩を語って聞かせよう
心の中にぐいぐい入り込んでいく魂の響きの声を
泣いていた涙が
熱き感動の涙となって流れ落ちるように
今という時を実感できる
そんな詩を語ってみたいものだ

詩人よ
言葉を書くことだけが詩人ではない
人の輪の中に入っていって
詩を語って
人々の心を癒すことも
詩人の仕事でありたいものだ
共に生きていることが共鳴できる世界を求めて
詩人一人一人が吟遊詩人でありたい

語ることを忘れてしまった詩人たちよ
いま多くの人々が苦しみに喘いでいる
黙ったままいつまで活字の世界に留まっているのですか
かつて詩人が吟遊詩人であった遥か昔のことを思い出して
さあ
詩人たちよ
人の輪の中に飛び込んでいこうではないか (二○○二年八月六日)

 趣旨はよく理解できますが、「吟遊詩人」になることだけがすべてではないと思います。もちろん作者はそんなことはご承知で、その上で象徴として「吟遊詩人になろう」とうたっているのだと思いますが…。「黙ったままいつまで活字の世界に留まっているのですか」「人の輪の中に飛び込んでいこうではないか」という呼びかけは、あらゆる機会をつかまえて、いろいろな手段で、と拡大解釈しています。
 卑近な例では、こんなことがあります。私事で恐縮ですが、私は会社で社内教育の講師も担当しています。若手技術者を集めて、彼らが日常的に体験しているトラブルに対しての解決能力を高めてもらおうというものです。技術系の人には知っている人も多いと思いますがKT法と呼ばれる手法です。
 その中で技術者からは「思考方法は判ったが、経験や知識をどうやって増やしていくか」という質問が度々発せられます。トラブルを解決するには経験・知識が重要なファクターなのですが、それをどう強化すれば良いのか判らない、という質問です。現場経験を積むこと、専門書をできるだけたくさん読むこと、という回答に私は「文芸書を読むこと」をつけ加えています。
 本当は詩を読むことと言いたいのですが、いきなり言っても無理ですからそういう言い方をしています。理科系の思考にも文学は必要なのです。幅の広い技術者になることが期待できます。
 そんな私の言動は「吟遊詩人」に近いものだと自負しています。街角に立って朗読するのではなく、職場で詩なり文学を論じる。それによって「人々の心を癒すこと」が本当にできるかどうか判りませんが、少なくとも「言葉を書くことだけ」に留まってはいないつもりです。この作品からは、そんな低次元な方法も許してもらえているのだと解釈しています。



CD『詩語りの世界』
2001.12.26 東京アートファクトリーにて
cd shigatari no sekai
東京都足立区 漉林書房・詩語り倶楽部発行
1500円+税

 宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」と「青森挽歌」を、田川紀久雄氏のくずれ三味線弾き語りと坂井のぶこ氏の詩語りで構成したライブ版です。
 田川さんとは先月3日の日本詩人クラブ詩書画展の朗読会で初めてお会いして、参加者の要請に応えて朗読をしてくれましたから知っていましたけど、初めてこのCDを聴く人は驚くかもしれませんね。朗読とは、静かに語るようにするものだという先入観を持っている人はなおさらかもしれません。坂井さんは、聴く限りではまあ普通ですけど、田川さんはまるで浪曲です。三味線を弾いて声をしぼり出して、子供のころになぜか好んで聴いた浪曲を即座に思い浮かべました。
 そういう意味でも衝撃的なCDです。朗読に先入観を持っていては聴けないでしょう。朗読のし方はいろいろあるんだと、まず先入観を追い払った方が良いでしょう。その上で三味線に乗せられた田川さんのダミ声で宮澤賢治を鑑賞すると、まったく違った世界が見えてきます。もう3回も聴いていますけど、まったく飽きるということがありませんね。
 出前もやっているということですから、密かに狙っています。今は役職を退いていますので難しいのですが、中学校でやれないかなと思うのです。PTAの役員や、それに続く地区の青少年育成会のボランティアをやっていたとき、年度末に講演をお願いするという立場になりました。今年度は知合いの詩人にお願いしたのですけど、田川さんの朗読もおもしろいかもしれませんね。小学生ではちょっと無理ですけど、中学生になれば宮澤賢治も知っているわけですから、学校も反対しないでしょう。いずれ機会があったら当ってみようと胸算用しています。



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