きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科 |
2002.10.6(日)
ちょっとした仕事上の品質トラブルがあって、関連会社から自宅に試料を届けてもらいました。本来は宅配便で会社に届けてもらうのが筋なのですが、休日は社内の運送部門はお休みです。どうしても今日中に決着をつけたかったので、しかも守衛さんに頼むわけにもいきませんから、私の自宅に、ということになってしまいました。会社と自宅は切り離すのは当然なんですけど、そうもいきません。これからそんなことも増えるのかなあ。
試料を会社に持って行って、部下の女性に出勤してもらって、結果は電話で聞いて、結論を関連会社に電話で伝えました。良い結果でしたから安心しましたけど、何か一日が損した気分です。時間的にはたいしたことはありませんでしたけど、そのことだけを書斎で考えていたわけで、他には手をつけられませんでしたね。まあ、そういう日もあるということかあ。
○詩誌『コウホネ』12号 |
2002.9.25 栃木県宇都宮市 コウホネの会・高田太郎氏発行 500円 |
正月/片股喜陽
茅葺家の真新しい畳の上で
正月の朝を目覚めた
故郷は
雑木林に人の棲が並び
田圃に道の駅が建ち
カラクリ時計は郷土の昔を演じ人を集める
風と戯れ歓声をあげて走った土手に
竹馬で駆け廻った賑やかだった庭に
誰もいない
子供達は肉声の届かない世界に
独り交信を繰返す
私は凧を揚げるために
凍てついた広場へ出掛けることもなくなった
揚げるべき凧をもう持っていないから
しかし凧に代るもの
何かを揚げなければ
高く揚げるものを探して
吹き抜ける安戸颪に
燃える生命で烈風にむかう
様変わりした「故郷」。「揚げるべき凧をもう持っていない」現状。だが「しかし凧に代るもの/何かを揚げなければ」という気持は強い。それは「燃える生命」があるからだろうか。作者の強い意思を感じる作品です。「竹馬」や「凧」が無くなって、代りに出現したのは「道の駅」であり「カラクリ時計」である。さらには「独り交信を繰返す」携帯電話まで出て来た。素朴な品からハイテクに代表される機器への変化についても危機感を持っているようにも感じられます。
それらに対抗するには「燃える生命」であるという精神性に、作者の志の高さに思い至ります。対立する2項ととらえる必要はないけど、その違いについても考えさせられる作品だと思いました。
○詩誌『』14号 |
2002.10.1 埼玉県所沢市 書肆芳芬舎・中原道夫氏発行 500円 |
包丁/肌勢とみ子
指で魚の絵を画いて見せた
がんばりすぎて刃物屋のショーケースから
時鮭の背びれと尾の先がはみ出してしまった
----このくらい魚をさばけるやつを
画いているうちに大きさを思い出して息があがる
----それやったら出刃や
刃物屋は唇の端を引きつらせて笑いながら
ショーケースの上に石器時代の出土品と見まがうような
分厚い刃の包丁をそっと寝かせた
----よう切れまっせ
今にも手首をスパッと切って見せそうな勢いで薦めるので
後ずさりしながら叫んでしまった
----それ下さい
----へえ おおきに
刃物屋は無造作にそれを紙に包みビニールの袋に入れて
秋刀魚でも渡すように差し出した
ゾクゾクしながら受け取ると
腕全体にずっしりとした重みがぶら下がる
何か大変なものを抱え込んだような気がして
落ち着かなく辺りを見渡した
なるべく体から離すようにして包丁を持ち
電車に乗り込もうとする時
はなれ目の男がジロッとこちらを見て
そそくさと人ごみの中に云って行った
車内はやけに冷え込んでいる
もしこの包丁を足の上に落としたなら
指がポロンポロンと弾けて
それぞれ好きな方向に転がてていくのだろうか
などと考えながら
鳥肌の立った腕をさすった
「包丁」の存在感がある作品だと思います。「石器時代の出土品と見まがうような/分厚い刃」「秋刀魚でも渡すように」「指がポロンポロンと弾けて」など包丁に関する直接の表現も奏効していると思いますが、「刃物屋」「はなれ目の男」の存在が脇を固めて、作品に重奏効果を与えているのだと思います。なかなか良く計算された作品だと言えましょう。何度読んでも「鳥肌の立」ちます。
○詩誌『さよん・U』5号 |
2002.10.20
東京都三鷹市 500円 さよんの会・なべくらますみ氏発行 |
詩になぐられた日/なべくらますみ
詩に出逢い
詩を味わうようになって
詩なんて どうってことないなと甘く見て
五七五を季節ごとに歩き
さらに七七と足を伸ばし
いつでも戻れる世界があるさとばかり
小説にまで食指を動かした
どれもちよっとかじるには都合よく
ときには
私の才能はここにと
思わせる賛辞もあって
詩は埒外に
追いやった
本屋で開けた雑誌の一ページ
目に飛び込んできたひとつの詩に
頭をなぐりつけられ
気を失った
間違いなく私の詩
いつだったか
同人の集まりで発表し
忘れていた作品があの時いた同人の名で
しかも月間一位に
私の詩が
私をなぐった
詩のボクシングで敗退した詩人も
これほどのダメージは受けなかったろう
と思うほどの
強烈なパンチ
しばらくは立ち上がれないほどに
事実関係は知りようもありませんが、こんなこともあるんだろうなと考えてしまいました。私自身は幸いにして被害にあったことはありませんけど、他人の盗作問題に首を突っ込んでしまったことがあります。加害者に悪意はなく、老齢による記憶違いで盗作まがいになってしまったと判明しました。被害者に謝罪して一件落着になったのですが、後味の悪さは今だに残っています。
それにしても「月間一位」になるくらいだから佳作だったのでしょう。それが盗まれたというショックは察して余りあります。モノ書きとしては犯してならないことですから、それが事実とすれば加害者は文学生命を終りにしなければなりませんね。その後にどんな良いものを書いても世間は認めないし、何より本人が書けるはずがないと思うのですが、甘いでしょうか。
○湧太詩誌『春雨』8号 |
2002.2.4 栃木県茂木町 彩工房・湧太氏発行 非売品 |
「東京詩学の会」に作者が提出した作品に嵯峨信之氏、猿田長春氏がコメントを付けていたようです。それを作者は録音していて、今号では1992年12月26日から1995年5月27日までの9編について誌上再現しています。嵯峨氏、猿田氏の詩に関する考え方が判って、非常に貴重な記録だと思います。ここではタイトルにもなっている「春雨」という作品を紹介してみましょう。
春雨
僕の棲家で人形が待っている
小さな唇が好きで
奪ったこともあったが
嫉妬が
胸の臓器を押しあげるようだった
愛情とか憎悪とかを
積みあげている指先から
誤解が
小さな音で崩れはじめている
月は中空にかかっていたが
雨雲の影が動いている
真夜中に
感傷で識別できない
人形が細い目をひらいていた
恋人であるように
肩をよせている
今が
過去だと分かったが手をつないでいた
僕の棲家で人形が妊娠したのは
夢精のためだった
路上の空缶に
乳をながしながら自殺した
遺書から
春雨の発芽は狂気だ
この作品について嵯峨氏は「言葉に無理強いしているけど、それはかなり詩を書いているからだ」と評しています。嵯峨氏らしい視線の評と言えましょうか。
確かに「春雨の発芽」などは無理強いした言葉だと思いますね。しかし、そこに顕れるイメージはつかまえられるように思います。「人形」と「春雨」からも、ちょっと暗いけどある明るさを感じることができます。作者がその明るさに無意識にすがりつこうとしている、と見るのは穿った見方でしょうか。要は作品として世に出てしまったわけですから、あとは読者が自由に読んでよいのだと思っています。「人形」を女性に置いても猫に替えても、あるいは少年ととっても良いわけです。いかに読者がこの作品に向き合うか、それが大事だろうと思うのです。そういう意味でも厳しい鑑賞に耐えられる作品だと思います。
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