きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.10.9(
)

 昨日から社員教育のアドバイザーとして湯河原町の研修施設に行ってきました。インストラクターが実際の講義をやって、私はそれを見ているだけなんですけど、研修生はなかなか優秀な連中が多くて楽しかったですよ。工業大学卒、入社3〜5年目が中心という10名ほどの連中ですが、将来が明るくなりましたね^_^;
 2日目の今日は本当は17時の最後までつき合うつもりでいました。でも15時から大事な会議が入っていて、14時には引き上げてきましたけど、後髪を引かれましたね。若い連中と一緒の方がおもしろいですからね。何より、イバレる^_^;



村上泰三氏詩集『フラスコの中で』
frasco no naka de
2002.9.25 東京都福生市 竜骨の会発行 2000円

 フラスコの中で

いつの間にか 丘陵が削られ 小川のせせらぎが消えてしまった。
大地の先は ぼーっとかすんで 定かではない。海と空との境界が
あいまいになり 砂浜は泥炭地のように ずぶずぶと踝まで減り込
んでしまう。

見はるかす涯には 歪曲したガラスの壁面がそそり立っている。男
は 巨大なフラスコの中に 閉じ込められている。尻も足元も ア
ルコールランプで底から温められている。その熱はいずれ真皮から
肉に達し 低温火傷から やがて骨まで爛れるだろう。
困ったことには その巨大なフラスコは 男が家族や子供を置き去
りにして 夢中で火球を吹いて創ったものなのだ。

風化や衰退などということばを 弄んでいるうちに ギルドの親方
たちは 甘い餌と着心地の良い衣服を与え 男の牙を抜いてしまっ
た。超音速旅客機や新幹線 最先端の情報機器なども与えられた。
その一方で男は 目隠しをされ 耳栓をさせられ ひたすら甘い蜜
をなめさせられてきた。

男の歯は ボロボロに腐食し 視野は狭められた。耳は本当のこと
が聞こえなくなり 骨はすぐに砕けるようになった。真綿のような
細い紐に 手も足もからめ取られ 身動きが出来ないようになって
しまった。

フラスコの中で 衣食足りて礼節を忘れた男は 蛹のように手を縮
こめて眠っている。外では激しい風雪が吹き荒れているのに 見て
見ないふりをしている。聞いて聞こえないふりをしている。
いつか来た道ではなく これから来る新しい危険な道を歩かせられ
るかも知れないのに 気付かないふりをして つかの間の微睡みを
まどろんでいる。羽化したときに 自由に飛ベる空がないかも知れ
ないのに。

フラスコの壁を打ち砕くために 次の世代を生きのびる保証のため
に 男は回復のためのことばを 紡ぎださなければならないのだ。

 1978年に第一詩集を出して以来だそうですから、実に24年ぶりの第二詩集です。すべて散文詩で、21編が収められています。散文詩について著者は、あとがきの中で次のように述べています。
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 <行分け詩は、事物の本質に向かって垂直に降りていく。それに対して散文詩は、きりもみ状あるいはらせん状に、本質に向かって降りていくと考えている。さらに今回この詩集をまとめてみて、私の場合、行分け詩は一枚の絵であり、散文詩は流れのある動画として立ち現れてくることを感じた。>
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 実に見事な洞察としか言いようがありません。紹介した作品は詩集のタイトルポエムですが、そのような思考に裏打ちされた作品と言えましょう。現代の閉塞状況とその原因、快復の手法を論理的に、かつ詩的に表現した作品だと思います。この作品の思想を仮に論文としてまとめることはできるかもしれません。しかし、論文でこのような感動を受けることができるか。あるいは論文を読み解くことはできても、作品として鑑賞することはできるか。多いに疑問と言わざるを得ません。詩の、詩たる役割を果している作品だと思うのです。
 「家族や子供を置き去/りにして 夢中で」働いて、「超音速旅客機や新幹線 最先端の情報機器なども与えられ」ていい気になって、その結果「いつか来た道ではなく これから来る新しい危険な道を歩かせられ」ていることに、私たちは本当は気付いている。しかし、何も言わない。今、「回復のためのことばを 紡ぎださなければ」どうなってしまうのか。大いに考えなければならない作品、そして詩集だと思います。



新編『菊田 守詩集』
新・日本現代詩文庫8
kikuta mamoru shisyu
2002.10.10 東京都新宿区
土曜美術社出版販売刊 1400円+税

 かつて山の切り通しであった坂道で

この坂はわたしの父を苦しめた坂だった
この坂の向うの山にきつね火がついて
荷車をひいた学校帰りの父が恐怖にかられたことを
私は父から何度も聞いた
またこの坂は父がひとを救った坂
アルコール中毒の初老の男が女房をなぐりつける家が坂の片側にあって
父が助けにいったのだ
また私が私の姉と一緒に買物に行って
姉のアルバイト先につとめる奥さんと出会った坂だ
私っておっちよこちよいなんだから……
と大きな声で皆を笑わせながら
階段から落ちたといっていた奥さんが
実は夫に階段から突き落とされたんだ
と聞かされた坂でもある
泣きながら母親と一緒に実家へ帰るのだという
そんなことのあった坂だ

坂の上に立って
個人的なことなんか書いたって何になるといったひとに
個人的なことなんだからこそ書くのだと
私は言おう

 1984年の第5詩集『モズの嘴』から2001年の第10詩集『仰向け』までをほぼ網羅した詩集です。「小動物の詩人」の名を不動にした時期だろうと思います。小動物に関する作品はこのHPでも何度か紹介していますし、このHPをご覧になっている方もいろいろな場所で鑑賞していると思いますので、ここではちょっと毛色の変わった作品を紹介してみました。1990年の第7詩集『妙正寺川』に収められている作品です。
 非常に思想性のある、はっきりとした物言いだと思います。著者の作品を長く鑑賞してきましたが、いつもご自分を抑えていて、これだけはっきりと表現した作品に出会ったことはなく、正直なところ驚いています。この作品を拝見して、表面的にはおとなしい、小動物に関する作品の真意を少しは汲み取れたつもりになっています。私にとっては著者の作品を鑑賞する上で記念碑的な作品と申し上げます。文庫という形で過去の作品に触れる意義をも感じた次第です。



詩と評論『PF』29号
pf 29
2002.10.1 静岡県浜松市
ピーエフ編集部・溝口章氏発行 500円

 帰港/宿里 博

単線の終着駅の近くの橋を渡り
急な階段をゆっくりとのぼり
丘を削った公園から
ドックに繋がれた貨物船の錆び止めの赤と
波の光の点々と 蜻蛉の群れと
静けさを見ていた

鉄を叩く音
子供達の遊ぶ声
下校を知らせるチャイム
誰かを呼ぶ声
買い物篭をさげた老婦の足音

誰もいなくなった家の
柿の木の下で黙って立っている年老いた船乗り
私は朽ちていく男を見ていた
木造の駅舎から
一人二人と人が出て来て
午後遅くの汽車を
砂利の敷かれたプラットホームで待っていた
摩擦で磨かれたレールと 輪止めと
線路を横切る猫を見ていた
薄鼠色の屋根がだんだん赤く染まり
首輪のない犬があてもなく
砂埃の中を走っていた

私は目を凝らして
えんえんと
つづく
沈黙という音を聞いていた

 「単線の終着駅」という言葉と「帰港」というタイトルが、何とも言えない味を出している作品だと思いました。最終連の「沈黙という音」という言葉も作品を締めくくる言葉として魅力的なものだと言えましょう。過去と現在が微妙に交じり合った感じも受取れ、不思議な作品ですね。
 作者の意図とは違ってしまうのかもしれませんが、読者が自由に雰囲気を楽しめる作品だとも思いました。詩作品の在り方としては重要な要素だと思っています。



詩誌『叢生』122号
sosei 122
2002.10.1 大阪府豊中市
叢生詩社・島田陽子氏発行 400円

 ミキサー/原 和子

大都会のミキサーにかけられたら
粉々になるか
はねとばされるか
どっちかだ

はねとばされた
おっちやんと猫が
地下道のダンボールで
抱きあって寝ている

立ち止ったズボンの足が
上から言った
----粉にされて
  パンに焼かれないうちに
  早く、お逃げ
足だけになった やさしい粉は
ポトリ、と五百円玉を 落としてくれた

ふたりが
首をもたげて見ていると
まっ白い足型が
点々と続いて
足首だけが
オーブンみたいな 終電車のほうへ
歩いていった

 視線がいいなと思います。常に「足だけ」「足首だけ」を見ている視線がこの作品の持ち味だと言えましょう。「ミキサー」に対しては「粉々になる」、「はねとばされる」。「オーブン」に対しては「終電車」、この対比も素直に入ってきて違和感はありません。むしろ「オーブン」と「終電車」は新しい組合せだろうと思います。新しいから良い、と言う気はなくて「オーブンみたいな 終電車」という比喩が奏効している作品と言うべきでしょう。心あたたまる中にも、チクリと社会を刺した佳作だと思います。



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