きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.10.25(
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 職場異動をして初めて休暇をとりました。その前からとっていなかったので、実に4ヶ月近く休暇をとらなかったことになります。以前は月に2日はとっていましたから、私にしては前代未聞ということですね。道理で疲れているはずだ^_^;
 でも、ボーッとするために休暇をとったのではなく、理由がありました。日本ペンクラブの電子メディア委員会があったことと、詩人・木島始さんの展覧会に行きたかったからです。東京駅から歩いて日本橋の「日本画廊」へ、そのまま日本橋茅場町のペン事務所へと、ルートも最高でした。金曜・午後の日本橋界隈を楽しんできました。
 木島さんの展覧会は「8字詩と3言語4行連詩」と銘打っていて、木島さんの絵と書で構成されていました。このHPでも以前紹介した作品もあって、思わずうれしくなりましたね。HPで紹介したのは絵葉書でしたが、この展覧会ではその原画を見ることができました。観客には外国人も多く、英語と日本語の比較などをやっていたようです。
 電子メディア委員会は、住基ネットについて、ペン文藝館の掲載者が招待者を含めて200名を超えたこと、会員向けのアンケートなどについて話し合われました。アンケートは電子メディアについての会員の意識を知ろうというもので、今年中に発送して今年度中には分析を終えることになりそうです。全会員に対してか、Eメールを使っている会員に限るかなど基本がまだ固まっていません。来月の委員会にも引き続き議題に上ります。まだこのHPで詳細を述べられるような状態ではありません。来月にはアウトラインをお知らせすることができると思います。



杉裕子氏著           回転木馬叢書(T)
『でえべえ(DB)ひとふでがきの旅』
db hitofudegaki no tabi
2002.10.15 千葉市花見川区 鈴木俊氏発行 1200円

 「でえべえ(DB)」とはドイツ鉄道のことのようです。「ひとふでがきの旅」ですから、ドイツ国内を一筆書きで一周しようということでした。2000年10月の旅行記というところです。
 内容は3部構成になっていて、第1部が1995年12月の旅、第2部が1998年12月から1999年1月までの旅、そして第3部がDBの旅ということでした。
 正直なところ、他人様の旅行記などあまり興味はありません。私はどういうわけか海外旅行の経験がなく、ましてやドイツなど行ったことはなく、著者も存じ上げておらず少々とまどってしまったのです。しかし第1部でリンゲルナッツの墓を訪れたことが書いてあって、おや?と思いました。よくよく見ると、著者はなんと鈴木俊氏の奥様ではありませんか! そうなると話は違います^_^;
 鈴木俊氏はドイツの詩人・リンゲルナッツの翻訳を手がけています。私も鈴木氏訳の『リンゲルナッツの放浪記』『僕の見習水夫日記』『体操詩集』をいただいていて、興味ある詩人だったのです。今回の著作は、リンゲルナッツの取材旅行へ同行した旅行記だったわけです。鈴木氏訳の内容が頭に残っていましたから、それはそれは面白く拝見しました^_^; 世界地図を引っ張り出して、地図と併せながら読んでしまいました。
 旅先でのトラブルも面白く書かれていますから、普通の旅行記として読んでもよいのですが、やはり鈴木氏の翻訳を先に読んで、それから読む方が面白みが倍化しますね。夫の取材に同行した妻の視点という独自な書き方も新鮮です。翻訳をすでにお読みになっている方は是非お読みになってほしい本です。



総合文芸誌『中央文學』460号
chuou bungaku 460
2002.10.25 東京都品川区
日本中央文学会・青山千望氏発行  200円

 小川登姉子氏の小説「秋の行方」は、まず、タイトルが良いと思いました。
 高校時代からの友人「麻起子」に、50歳を過ぎた「わたし」は、仕事の世話を頼もうとして新宿の喫茶店に向う途中で「義人」らしい男を見かける。「義人」は「わたし」が以前務めていた会社の若い男で、見かけたときはホームレスの姿だった。「麻起子」とは一日、長いおしゃべりを続けたが、仕事の世話の話は結局言い出すことができなかった。
 粗筋はそんなところですが、現代を良く表した作品だと思います。若くても就職ができない、女性も50歳を過ぎるとロクなアルバイトもない、そんな現状が新宿という華やかな舞台で語られていきます。「秋の行方」というタイトルは、「わたし」も「麻起子」も「義人」も、そしてこの国そのものが秋≠ナあると言っているように思いました。重苦しくなく、どちらかと言えば軽めの語り口が、現代を表現するのにうまくマッチしているとも思った作品です。



柳生じゅん子氏詩集『藍色の馬』
aiiro no uma
2002.10.10 宮崎県東諸郡高岡町 本多企画刊 2500円+税

 間違う駅

あまりに度々間違えるので
親しい駅名になってしまった
駅の外に出たことはないが
わたしがほんとうに降りたいのは
地下鉄のこの駅ではないかとたたずむ

長いエスカレーターに乗る
(大勢の人についていくのは
いつの時代も間違いのもとだから
はぐれることを恐れてはいけない)
人の脳のなかのような迷路を進む
地上へのいくつもの出口は
人が今日一日を生きていくための選択肢だ
遠い記憶へと向かう
ほの暗い階段が見えてくる

駆けあがると そこはわたしの出生地
小さな空襲がすでに始まっている
住宅地の屋根すれすれに飛ぶ敵の飛行機を見た
若い母の驚く声がする
母のお腹のなかで わたしの心臓も高鳴る
海軍士官の大伯父が「この戦争は勝てない」と
明言した家
父母は満州に疎開することを
決めたばかりだ
夜 家族が秘密の話をするたびに
わたしも息をひそめ
小さなこぶしを握りしめたに違いない

「炎天にをみな静かに生まれけり」
窓辺で父が親類にハガキを書いている

乗りかえのホームのはずれ
爆音とともにやってきたのは
時折 わたしの眠りの淵を
走ってくる電車によく似ている

 著者はあとがきで「身近な者たちを通してみえてきたものをTに、主として行分けの諸作品をUに収めた」と書いています。紹介した作品は、そのTの作品です。「身近な者たちを通してみえてきたもの」が申し分なく発揮された作品だと思います。
 過去と現在の対比が見事で、「母のお腹のなかで わたしの心臓も高鳴る」というフレーズも新鮮です。しかし、それら以上に「(大勢の人についていくのは/いつの時代も間違いのもとだから/はぐれることを恐れてはいけない)」というフレーズに私は惹きつけられてしまいました。そう思って生きてきたはずなのに、いつの間にか「大勢の人についてい」っている自分に気付かされます。身を持って判っている人生の先輩の思想を感じさせられた詩集でした。



鬼の会会報『鬼』365号
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2002.12.1 奈良県奈良市
鬼仙洞盧山・中村光行氏発行 年会費8000円

 燗酒のこと
 奈良時代の後期から平安時代にかけ編纂された『延喜式』に、燗酒の記事があります。落ち葉のたき火で、鍋の酒をあたためて飲んでいるのです。燗酒は、重陽の節句から桃の節句まで飲みます。江戸中期には、夏でも燗酒を飲むようになりました。神事・祭礼の公の酒と、私の酒は区別され、前者のお神酒や三々九度は冷やを平たい盃で、気軽な後者の燗酒には旨みのある濃醇な酒が適している。
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 連載「鬼のしきたり(54)」の一節です。燗酒は奈良時代からあったんですね。それも「落ち葉のたき火で、鍋の酒をあたためて飲」むとは、風情のあったことだろうと想像します。そう云えば、冬のキャンプ場で焚火を囲み、青竹に酒を入れて暖めて呑んだことを思い出しました。たいした銘柄の酒でなくても、なぜか旨く感じたものです。酒は呑む場所によっても味が変わるのかなと思いました。



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