きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.10.30(
)

 会社の厚生年金基金が解散するので説明会をやるから来い、というので行ってきました。厚生年金基金は本来国がやるものですが、会社によっては自前でやることが認められていました。ところがこの不況で赤字に陥りそうなので、その前に権限を国に返すということらしいです。返したあとの運用は個人の責任で、ということらしいのですが…。
 厚生年金基金は年金の10分の1程度の比率ですから、どうでもいいやと思っていたら、どうもそういう訳にはいかないようです。今まで貯まっている金も個人に返すから、その運用もやれ、という付帯条件が付いていました。今までは自分の小遣いのことしか考えたことがなくて、家の運営はすべて嫁さん任せでした。一度、私がやったことがあり、1年で大赤字になったことがあります^_^; それ以来、私にはそういう才覚が無いことを自覚して元に戻しています。今度もそうなるのかな? 金と無縁なところで生きたいものですが、大金持ちになるか無一文になるか。中途半端が一番いけませんなあ。



北村朱美氏詩集『横浜発、琴座ゆき』
yokohama hatsu kotoza yuki
2002.11.1 東京都台東区 ワニ・プロダクション刊 2000円+税

 同僚

君と
どこか遠い
いで湯の里なんかでさ
ゆっくりと
酒を酌み交わしながら
夜通し
語り明かしたら
さぞ
楽しいだろうなあ
特別の気持ちはないが
仕事ぶりにホレた
同僚のしみじみとした
言葉に
無言で流し目を返す
君と飲めばいつでも
7合目か8合目まで上れる
やろうと思えばやれるけど
やらない
それが一番いいんだ
まあ
なんてことを
そこまで言ってしまえば
ちょっとあからさま
過ぎやしないかしら
と思わないでもないけれど
笑って目でいさめる
だけにする
解るから
お互いに
もう若くないのだし
いろいろあって
ここまで来たのだから
たたけばほこりのでるからだ
心なんか傷だらけだし

  ね

 大人の詩だなと思いました。私も著者と年齢が離れていませんから、モデルの「同僚」の気持はよく理解できますね。10年前には判らなかった感情です。ガヤガヤと賑やかな店で呑むのもいいけど、静かな料亭で差しつ差されつの方が好きになってきたことと軌を一にしているようです。
 著者の第一詩集です。落ち着いた雰囲気の詩集で、全体に大人だなという印象を受けました。若い人の溌剌とした第一詩集とは違う味があると言えるでしょう。今後のご活躍を願ってやみません。



詩誌『東国』121号
togoku 121
2002.10.10 群馬県伊勢崎市
東国の会・小山和郎氏発行 500円

 輪舞の裏側/新延 拳

  もしも私が叫んだとて、天使たちの誰が聞くだろう*

汗をかかなかった一日を堕落といわれても
海の光が群山を越えて私の鏡にとどく
背高泡立草が私の影をつぶす
拠りどころのない一日
心の余白が狭まっていく

手品師の帽子より出てくる
鳩は羽ばたかず
兎は跳ねないが
風になった馬が虚空を翔かけていく

夢の中からたち現れる少年たちの
冥い泉のまわりをめぐる輪舞
少年たちは魂の裏側を見せて誘う
濤がその裏側を見せるように
千年もの間
少年たちは水子の兄
水子には自分の足音が聞こえない
水子は言葉をたくさん抱えて右往左往

孵りたければ孵ってみろ
卵にむかって
水子が沈黙から取り出した言葉

  *ドゥイノの悲歌第一歌

 正直なところ、すべてを捉えられたとは言い切れない作品です。「
ドゥイノの悲歌」も調べてみたのですが手元の辞書では見つかりませんでした。それが判れば、この作品の良さがもっと理解できるだろうと思うのですが致し方ありません。
 それはそれとして、「輪舞」と「少年たち」の「魂の裏側」が見事に調和した作品だと思います。調和≠ニは、ちょっとおかしいんですが別の言葉が浮かびません。
 そして「水子」。重い言葉で、重く使われていますが、ある種の軽さも感じます。なぜなんだろう? よく判りません。読みが浅いとしか言いようがありません。ただ、この作品の本質には迫ってみたい、そんな思いをさせる作品です。



詩誌『谷蟆』9号
taniguku 9
2002.10.25 埼玉県熊谷市
谷蟆の会・小野恵美子氏発行 非売品

 野菜かご/嶋野可矢子

おたんこって何 と茄子の涙はつるりとすベる
でも響きはいいから とかぼちゃがなぐさめた
おたんこ松も どて西瓜もないのにな
花は桜木 芋侍
二本差しどころか串一本差したこともない
あたったのあたらないのってさ
でも大根の代役をできるやつがいるかい

ああ やかましい
コトリと寝返りをうって きうりは目をつむる

 文字通り「野菜かご」の中の野菜たちの擬人化ですが、おもしろいですね。それにしても日本人は野菜たちにいろいろな名前を付けたものです。それもあまりいい名と言えないものを。
 このまま人間社会にあてはめられそうなところが深みを感じさせます。
 「三郷市吹上小学校子育て講座」で小野恵美子さんが講演した内容が載っていましたが、感動的でした。吹上小学校には小野さん自身が勤務なさっていた時期があったようで、そこで出会った同僚の先生の回想をまじえた子育て論です。文学部卒と教育学部卒の先生の違いにも言及していて、私などには窺い知れない世界を教えてくれています。久しぶりに聖職≠ニいう言葉を思い出しました。



溝口章氏詩集『微光の海』
bikou no umi
2002.11.1 東京都新宿区
土曜美術社出版販売刊 2500円+税

 暮しの折り合い

膝に痛みが わけもなくいきなりで
たちまち情なく伝い歩く始末かと
それも叶わず
ころり転がったら
その位置で目が合った まともにだ
猫は ひどくばつが悪そうにぱちぱちと
水晶玉の目をしばたき ゆっくりと
そっぽをむく
そこはいつもと変らぬ街と空とが 今こそ一際のどやかに眺められる
私の部屋
転がったままどうにも起きあがれない視野の歪みも含めて
暫くはこの猫との暮しの折り合いを考えておく必要がある
----と一言うのも
己れの後脚を軽々と担ぐように育の後ろにまわして あれは
関節をはずしたわけではない そういう苦もない柔軟さで
からだのすべて
ほの暗い処までも血の息を通わせる生きものと 無様に
転がっただけの私との
暮しの折り合いをどうつけて過ごすべきかを
顔をしかめ唸りながら問うている 私の
目線のほんの少しばかり上のあたりで
外を眺め のんびりと尾を動かしている
ちっぽけなまるい背なかで

 失礼ながら「私」と猫の姿に思わず笑ってしまいました。シリアスな見方もありましょうが、この作品はそういう読み方で良いのではないかと思います。「ほの暗い処までも血の息を通わせる生きもの」というフレーズではちょっとシリアスになってしまいましたが…。
 でも、やっぱり猫は「己れの後脚を軽々と担ぐように育の後ろにまわして」いる姿が似合っていますよね。そして人間は「無様に/転がっただけ」。この落差の中で「暮しの折り合いをどうつけて過ごすべきか」。人間と猫の、ともに生活する姿に著者の深い愛情も感じてしまいます。
 人間の本質を追い続ける詩編が多い中で、とても感想すら書けないなと沈んでいましたが、猫の詩編は私でも立ち入る余裕を与えてくれました。本当はそれら著者本来の作品を紹介したいのですが、力が及びません。是非ご一読になって溝口詩の世界を堪能していただければと思います。



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