きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.10.31(
)

 今日で10月もオシマイ、、、と、11月23日に書いているのは実感がありませんね^_^; ようやくここまで追いつきました。実際の生活とHP上での生活が一ヶ月近くも離れていると不思議な感覚に陥ります。どちらが本当の生活なのか、変な錯覚にとらわれてしまいます。2〜3日の差なら大丈夫なんですが…。
 職場異動をして三ヶ月余。ようやく慣れましたが、慣れたら慣れたで仕事は増えるものですね。細かいところまで気付いて、何とかしようという気になって困っています。その気になるとすぐに関連部門を動かす方なので、そこで新たな仕事が増えてしまう…。そんな悪循環を自分でやっていることにも気付きました。でも是正しなければいけないシステムは早く改善したいし…。
 当分、そんなことで悩みながらHPの運営も続ける、ということになりそうです。村山にせっかく詩集や詩誌を贈ってやったのに、今だに返事がないとお怒りの皆様、3週間遅れになっています。申し訳ありません、もうしばらくお待ちください。



林柚惟氏詩集『芳葩』
hoba
2002.11.10 東京都東村山市
書肆青樹社刊  2300円+税

 

町は小石さえも転がっていない
植物は限られた植木鉢の中
吹きだまった埃の上にやっとのことで顔を出す

コンクリートに覆われたこの町では
人間までもが物体のように
干からびてしまっているのではないか

----確かに便利になった----

だが
息苦しさにきゅうきゅう言って
壁に囲まれた箱の中に帰ってくる
自然を捨てた人間に安らぎはない

植物を檻に入れて
虫けらを追い出して
人間自身が鉄格子の中に追い込まれたのだ

 最後の一行がよく効いていると思います。町は檻・「鉄格子」だという視線が新鮮です。その檻の中から郊外を見て、田舎者≠ニ小馬鹿にする都市生活者の姿も見えて、どんどん想像は広がっていきます。私自身が田舎に住んでいますから、僻みかな?
 著者の第一詩集です。素直な感性に共感する作品が多くありました。今後のご活躍を願ってやみません。



詩誌『倭寇』32号
wako_32
2002.10.31 埼玉県和光市
わこう出版社・鈴木敏幸氏発行 1000円

 髪を洗う女/伊勢山 峻

橋の上に人がたむろして
下をのぞき込んでいる
州があって
女が髪を洗っているのか
髪が草のように下流になびいている
「あんなところで----」
誹謗しながら
顔を上げるのを待っている

川は大学の敷地のはずれ
女のいる上の堤は
駐輪場らしく
自転車が折重なっている
かつては大学の乗馬クラブがあって
色とりどりの若者が
軽やかに馬を走らせていた

川に月の光がさしてきた
女が顔を上げ
月を鏡に見立ててか
髪を梳けずり 束ね
堤を軽やかに上がり
暗闇に呑まれた
あっけない結末に
人々は無言で動きだした

ギャロップもない
倒れた自転車の向こうに
哲学のような校舎

 最後の一行にすべてが収斂された作品だと思いました。「州があって/女が髪を洗っている」光景は不思議ですけど、あり得ないことではないと思います。私も目撃したことがあります。初冬のキャンプ場での朝のこと。20人ほどの仲間と前夜からキャンプをしていましたが、朝の散歩で河原に降りてみると、女性が髪を洗っていました。仲間の中の米国人女性でしたが、冷たくはないのだろうかと驚いた記憶があります。
 そんな経験があってか、作品に描かれた光景はさして驚きませんでしたけど、「哲学のような校舎」には唸ってしまいました。私の経験は散文で終ってしまいましたが、ここでは詩として成立しています。最後の一行で詩にしてしまう恐ろしさを感じさせられました。
 今号は「高橋渡追悼号」でした。1999年5月に日本詩人クラブ会長に就任し、その年の11月に亡くなっています。ちょうど私も理事に任じられましたので、いわば上司にあたります。半年とは云え、高橋会長の温かいお人柄に接することができたのは幸せでした。当時を偲びながら詩人たちの追悼文を拝読しました。改めてご冥福をお祈りいたします。



詩とエッセイ誌『橋』107号
hashi 107
2002.11.1 栃木県宇都宮市
橋の会・野澤俊雄氏発行  700円

 習死/中津原範之

「死ぬ時節には死ぬがよかろう」と
良寛は言った
宮澤賢治はその詩「雨ニモ負ケズ」の中で
「南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクトモイイ
トイヒ」と言っている
こんなことを思いながら毎日を過して来た
死にもせず 生きているとも思われず
それでも時には空行く秋空を眺めたり
青松虫の音に聞き入ったり
痛む体を忘れることもある
こんど生まれ変わって来たら
もっと思いやりのある人になろう
いたわり心を持った人になろう
若い頃「書」に書いたことのある「習死」という言葉の
意味が
自分なりに少しずつわかりかけてきた

 「習死」とは死を習う≠るいは死の練習をする≠ニいう意味なのかもしれません。手持ちの辞書には意味が載っていませんでした。作者の造語かもしれません。それにしてもいい言葉だなと思います。眠るということは「習死」なのかもしれませんね。
 「死にもせず 生きているとも思われず/それでも時には空行く秋空を眺めたり/青松虫の音に聞き入ったり」というフレーズは作者の思いですが、これは共感できます。毎日忙しそうに生きているつもりでいますが、本当は「死にもせず 生きているとも思われず」なのかもしれません。どういう死に方をするか、まさに「習死」を考えさせられた作品でした。



詩誌『石の森』112号
ishi no mori 112
2002.11.1 大阪府交野市
金掘則夫氏発行 非売品

 よけいなこと/美濃千鶴

移そうとして
立ち往生してしまったのだった
よけいなことをするから
汗びっしょりの私に母はいう
よけいなことをするから

模様替えのあおりを喰って
大きなタンスが泣いている
狭い二階の廊下で
進むもならず 退くもならず
空間を見誤って
私たちは寝室に入れない

あきらめて私は
廊下に狭まったタンスを
横真っ二つに切断したのだった

よけいなことをすれば
思い出をひとつ失う
よけいなことをすれば
二十年一緒にいて置き場も変わらなかったものを
突き崩さなければならない
よけいなことをすれば
それなりに落ちついていた世界が
すべて無茶苦茶になる

その混沌を予期することを
覚悟と呼ぶのだと
のこぎりのきしみが
私にささやく

新しい時のために

それでも
残骸は痛い

 本当に「よけいなことを」やってしまうものですね。私自身の経験では、特に若いときにはその傾向が強いようです。この歳になると、もうどうでもよくて、10年そのままですが^_^;
 「その混沌を予期することを/覚悟と呼ぶのだ」というフレーズは名言です。良かれと思っていろいろやっても、やはり覚悟≠ェ必要なんですね。会社の仕事で混乱が起きるのですが、その原因が判った気がします(^_^;;;



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