きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.11.6()

 どこの会社でも一緒でしょうが、期の始めには業務目標を提出します。今期はこういう仕事をやって、こういう成果を挙げますよ、と会社に約束する、アレです。私の今までは一匹狼でしたから、テキトーに書いてテキトーに成果を挙げて、それで済みました。上司もかなりテキトーで、まあ好きにやってよ、で終っていたのですが、今期は勝手が違っちゃいました。職場異動に伴って部下が出来、彼女たちの業務目標を見なければならなくなったのです。
 今日はそのための打合せを持ちました。一人一人の目標を聞いて、アドバイスをして、ちょっと疲れましたね。でも、それで給料が決まってくるのですからお互いに真剣です。そういう姿って当り前なんでしょうけど、今まで幸いにも避けて通ってこられましたから、最後には頭痛がしてきました。一匹狼の技術屋というのは、そういう面でいかに恵まれていたかが良く判りました。まあ、嘆いていてもしょうがない、与えられた仕事を楽しんでやるしかないでしょうね。



深山鏡子氏著
『私の「もうひとつの世界」ベルギー』
watashi no mouhitotsu no sekai belgium
2002.10.8 東京都中央区 丸善出版サービスセンター刊 1905円+税

 白い孔雀鳩 ----ブルージュにて----

木立ちの間を縫うようにつづく小径をゆくと
足もとには 黄色いラッパ水仙の群
その向こうから 鳩の声
沢山いるらしい鳩の声

昔 この小径を首に鈴をつけられた
大勢の病気の女の子たちも
歩いたかもしれない 尼僧院の径
やっぱり鳩の声を聞きながら----

木漏れ陽に 若葉が頭上に光り
私の行く手には
急に 数えきれぬほどの白い孔雀鳩のいる広場

キジ鳩の声かと思っていたが
全く違っていて 真白い鳩たちが
思い思いの場所で
美しい扇のような 尾を広げては
閉じていた
そして 虚空に消え去り
又 集まって来ていた

大きな白いペンキ塗りの嶋小舎のテッペンにまで止まって
全く平和な中で 自由を満喫していた

再びふるさとへも帰れずに
亡くなっていった女の子たちの思いを
告げているかのよう

旅をつづけてゆく私の胸の奥深く刻みつけられてゆく
ブルージュの白い孔雀鳩の声

誰に どうということではなくて
じっと立ち止まったままでいる
さようなら 白い孔雀鳩たち

 ベルギー旅行を散文・詩に作品化した本です。他に国内旅行に材をとった作品もありました。紹介した作品はベルギーでの詩です。
 私の浅学の故ですが、驚いたのは「尼僧院」というのは「大勢の病気の女の子たち」を受入れる所だったということです。しかも「首に鈴をつけられ」て。「歩いたかもしれない」とありますから、作者の想像なのかもしれませんが、この現実感は本物だと思います。
 それに対比して「白い孔雀鳩」をもってくるのは、見事だと思います。さすがは詩人の旅行、感じて持ち帰って来るものが違うな、と敬服した詩集でした。



奥田博之氏詩集『ヒマーラヤの星』
himalaya no hoshi
2002.11.18 大阪府豊能郡能勢町 詩画工房刊 2200円+税

 インドの日々

洞窟に住まって
私は
確実なものの深さを測っていた

世界には
関係性の網が張り巡らされていて
尋常では 魚は水から
決して逃れられるものではないにしても
方法はあると高をくくって
ヒマーラヤの懐で呼吸していた

仏陀は 形あるもの一切は無常であり
苦しみであり 我ならざるものであると言った

私も
解脱者でありたいと発願し
肉体意識は灰にすべきものとして
色即是空を洞窟の入口に立てかけ

みずからを解放するため
これまでの神を否定したし
幻影に惑わされて
妄想の火を起こすようなことは
二度と思わなかった

ヒマーラヤが
時代の怪しげな動きに影響されて
乱れた世相を受け入れるなど 私には
あり得ないことであったし
私は
誰からも自分の夢を邪魔されることを嫌い
この世を頼りにしてはいなかった

本当は何なのか 何が真実なのか
追求せずにはおれない思惟の嵐を
行者の沈黙に変えて
深山の霊気を培うことを旨とし

インドには
一つの空を捲れば
もうひとつ別の空があると信じ
宇宙など大きいとも思わなかったし
そんなものは存在しないと言いたい程
ひたすら真実の自己に没頭し
瞑想の日々を過ごしていた

 このHPでも何度か紹介している奥田さんの4冊目の詩集です。詩集の他に『般若心経論考』上・下の評論やベンガル語訳書『ラーマクリシュナの福音』T・Uなども出版しています。今回は詩誌に発表した作品を中心に「回顧」としてご自分の半生を振り返った作品も収録されていました。
 紹介した作品はタイトルともなったヒマラヤでの修行生活を描いたものですが、厳しい修行の様子が抑制されて描写されていると思います。「世界には/関係性の網が張り巡らされていて」「インドには/一つの空を捲れば/もうひとつ別の空がある」などのフレーズに、俗塵にまみれた身を洗い落としてもらったような思いをしました。
 「ヒマーラヤ」とはインドの現地表記に従ったものである≠ニあとがきにありました。言語感覚にも鋭敏な詩集と言えるでしょう。



詩誌『掌』125号
te_125
2002.11.1 横浜市青葉区
掌詩人グループ・志崎純氏発行 非売品

 春の鬼/国広 剛

生温かい嵐が街の夜を浚う
ベランダのテレビアンテナから 道端のごみ溜めから
公園の細い梢から
夜の貧しい微睡みをひきちぎる
飢えた鬼である私は室内灯に照らされた部屋を
漁っている

高原の修道院の陽だまりに立っていたのは
つい午後のことだ
谷底から起こる鳥の声は
私の肉体で交錯する透明な弧線 あるいは直線で
くりかえし 後ろの雑木林に抜けていった
頭上では丈の低い桜があらゆる枝に
蕾を揺らしていた

谷の縁で鶯が鳴き 谷底から鶯が鳴いた すると
ふいに私の視力が高まり
とうに忘れた人の流した涙までが
鮮明に視えたのだ
細い頬骨の下で肌目の詰まった頬が濡れていた
陶磁のような前歯が歪んだ唇を静かに噛んだ

スニーカの足裏でつかんだ柔らかな土の感触だけが
かろうじて私を倒さなかった

嵐は暗くいよいよ熾り
熱風も火打のように焦げ臭くなった
壁紙のめくれかかった部屋のなかで
私が握っているごみ袋は掠奪のための汗臭い頭陀袋だ
屑篭の底に貼りついた蜜柑の皮と湿布薬
本棚の隅でねじれたペーパーバックス
を掌で袋の底に押し込む
午後の視力は今 日常の裏側に達して
うら寒い山から降りてきた鬼の肌は
踏みにじった記憶のようにざらついている

私は自分の半分ほどを捨てたいのだ
春は捨てるときだ 別れではこの飢えをしのげない

 正直なところ、私には作者の意図は万分の一も汲み取っていないと思うのですが、魅力を感じる作品です。「春の鬼」というタイトルに惹かれて、最終連で組み伏せられています。特に「春は捨てるときだ 別れではこの飢えをしのげない」というフレーズには参りました。「飢え」は「鬼」と関連させて読んで良いと思います。「自分の半分ほどを捨てたい」も「鬼」である自分の半分、という読み方をしました。
 一行一行、一字一句を自分なりに咀嚼できないのは悔しいのですが、それも私の読解力の無さでしかたありません。しかし、この一年ほどで拝見した作品の中では抜群に魅力のある詩です。HPをご覧の皆様がどういう読み方をなさっているか、興味のあるところです。何度か読み返して、作者の真髄に触れたい作品だと思います。



   back(11月の部屋へ戻る)

   
home