きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.11.12()

 夕方から新宿で「新・波の会」のコンサートに誘われていたのですが、とても行ける状態ではありませんでした。仕事に追いまくられています。18時に新宿に着くには、遅くとも16時に会社を出ないと間に合いません。16時に仕事が終るわけがなく、早々に諦めてしまいました。夕方は仕事を早めに終えてコンサートに行く、そんな生活がいつ戻ることやら。いずれそういう状態にもっていこうと思っていますが、いつになるやら…。今は仕事一筋です。



個人詩誌『天山牧歌』57号
tenzan_bokka_57
2002.10.25 福岡県北九州市
『天山牧歌』社・秋吉久紀夫氏発行 非売品

 声/ランヂョンヂン(トゥチャ族)

鶏のひと声は夜明けであり
犬のひと声は山路を旅人がやって来る知らせである

花のひと声は陽射しに噎
(む)
草のひと声は渓谷を翠
(みどり)したたらせ野山をみどりにする

嬰児
(あかご)のひと声はわたしは飢えているという訴えで
お母
(か)ぁのひと声は天がもっとも人をよく騙すこと

笛の穴のなかで咽
(むせ)ぶあの声は
歳月の疼
(うず)きである

炊煙は声がない、わたしはやつの天と地の間の
しなやかな姿態を永遠と呼ぶ
              (秋吉久紀夫訳)
 (『詩刊』2000年4月号 18頁)

 今号は「現代中国少数民族詩(8)」として「新彊ウイグル自治区の詩人たち」という副題が付いています。紹介した作品は表1の巻頭作品です。「トゥチャ族」もおそらく少数民族だと思います。
 この作品はおもしろいですね。鶏、犬、花、草、嬰児までは、まあ常識の範囲でしょうが、「お母ぁのひと声は天がもっとも人をよく騙すこと」というのですから、これは凄い。それ以降の2連は、お母ぁに掛かっているのだと思います。「わたしはやつの天と地の間の/しなやかな姿態を永遠と呼ぶ」というのは、母・女性をうまく表現していると思いました。民族に関係なく、母は強いということなのかもしれませんね。



柳田光紀氏詩集『壺の言葉』
tsubo no kotoba
2002.11.30 東京都新宿区
土曜美術社出版販売刊  2300円+税

 現代道路考

道に血が通っていたとき
路地から路地へ
納豆や豆腐が売られ
味噌や醤油の匂い
人情が行き交っていた

道に血が通っていたとき
酒屋のおじさんも
八百屋のカミさんも
愛想よく
道行く人は みな
人にやさしかった

道に血が通っていたとき
路地には
石蹴りをしたり
手鞠をつき
童唄を歌って
手をつないだ
子供たちが遊んでいた

だが どの道も虚飾に鎧われ
道に血が通わなくなると
舗道は
歩いているぼくの足裏から
思考を抜き取る

血の通わなくなった道を
人はどこへ行こうとするのか
路地を掃除しているのは
おじいさんかおばあさん
子供たちは どこにもいない
いったい どこへ消えてしまったのか
学習塾の巣箱の中
個別に切り離されて
戦士の羽音を立てている

干からびた道を
どこまで歩いて行っても
ぼくたちを取り巻いているのは
道端に積み上げられたゴミ袋の山
カラスが突き破って
はみ出した魚の頭や卵の殻
ひよっとすると嬰児の手や足など……
見知らぬどこの街路も
同じような風景ばかり
テレビのコマーシャルのように
広がっている

 道路から見た文明批判の作品です。血の通わなくなった道路は「歩いているぼくの足裏から/思考を抜き取る」という洞察は見事だと思います。そしていなくなった子供は「学習塾の巣箱の中/個別に切り離されて/戦士の羽音を立てている」というのですから怖いほどの観察力と云えましょう。「ひよっとすると嬰児の手や足など……」というフレーズは単なる想像ではなく、すでに現実となっています。
 硬派の詩集と言えると思います。正しいものは正しい、駄目なものは駄目だとはっきりしていて、拝見してスッキリした気持になりました。少年期に敗戦を体験した世代の良識が具現化した詩集だと思いました。



由良恵介氏詩集『さっちゃんの日記』
sacchan no nikki
2002.11.1 大阪市北区 編集工房ノア刊 2000円+税

 蔓陀羅

少し肌寒い十月の日曜日の公園
それでもさっちゃんは
翼をもらった天使のように
子どもたちの白い息の中
蔓陀羅のような花畑を走りまわる
時折 私のいるのを確認しながら

里親はさっちゃんで三人目
最初のともちゃんは
学園一の無口な子だった
先生も心配していたが
半年程して心を見せるようになった頃
音沙汰のなかった母親が現れた
二人目のかおりちゃんは
対照的に活発な子で
正月を我が家で過ごした時
家の中を走りまわり
重箱をひっくりかえすありさま
彼女も半年程して
おばあさんがくるようになった
さっちゃんは何時……
そんな思いの中
ふと 私を見ているさっちゃんと眼が合った
となりで遊ぶ子が持っている
綿菓子が気になるらしい
聞くと
「いらない……」と一言
くちびるをかみしめる彼女をおんぶしながら
人影の少なくなっていく公園を歩く
夕陽の中を
ハトの家族もいそいでいる
いつまでつづくのか
私たちとさっちやん

帰ってごはん食べようか
背中から
小さな寝息の返事
地蔵さんでも背負っているかのような
寝た子の重い身体
どんな夢を見ているのか

 詩集は2部に分かれていて、Tは週末里親の日記=AUは訪問介護の日々を作品化したものです。紹介した作品はTの、ある日の「さっちゃん」を描いています。里親ではありませんでしたけど、私も小学生の頃、親戚に1年間預けられた体験があり、「いらない……」という言葉が実感として理解できるつもりです。
 里親の経験はありませんが、大変だろうなと想像しています。しかし著者はあとがきの中で、訪問介護について「日々勉強です。人の出逢いの楽しさと複雑さを身にしみて感じております」と書いています。敬服するとか言いようがありません。社会の片隅に追いやられた人たちに光をあてる著者の仕事に畏敬の念を持ちながら拝読しました。



詩誌『ハガキ詩集』215号
post_poems_215
2002.11.6 埼玉県所沢市   非売品
ポスト・ポエムの会 伊藤雄一郎氏発行

 丑(牛)VS象

僕と彼は似たところがある
人間が生産活動を始めた時から
荷役には欠かせない動物として
重宝がられたことだ

僕は密林から切り倒された重い材木を
運ぶのにこき使われてきたし
彼は田畑を耕す耕運機の役を
果たしてこき使われてきたし

ただ僕と彼の違うところは
僕は死んだら高い値段で売れる牙というものを持っているが
彼の場合は解体され肉屋に売られて
何も残らない
一生黙々とただ働いて働いて
最後には殉教者のように引かれてゆく後姿を見ると
僕の小さな目からは涙が零れ落ち
牛さんには一歩譲らざるをえないのだ

 「落ちこぼれ十二支物語」と副題が付いています。選ばれた十二支たちに対して、選ばれなかった十二支もいるはずで、その言い分を聞いてみようという発想です。そのユニークな思考に敬服しました。
 紹介した作品は私の干支です。丑年でなく象年だったら、なんて考えると楽しくなりますね。そろそろ年賀状の季節、そんなことを考えながら賀状を作るのも一興かもしれません。



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