きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.11.15()

 17時から日本ペンクラブの電子メディア委員会が予定されていましたが、欠席しました。平日に仕事を早めに終えて行くという今までのパターンは、ちょっと無理になったなと実感しています。幸いなことに電子メディア委員会はメーリングリストを持っていますから、会議に直接出席できなくても任務は進みます。当面はそれに頼るしかありません。でもやっぱり、たまには委員各位と顔を合わせて議論したいですね。
 職場異動して、今日でちょうど3ヶ月経ちました。ひとつの区切りで、この3ヶ月はいわば試行期間だったと私なりに位置付けています。前任者との引継ぎも100%出来るわけはないのですが、今までの不都合の一端は前任者にも責任があると思って、そう前任者にも伝えていろいろご教示願ってきました。しかし明日からはそれをやりません。すべて私の責任として業務を進めます。前任者にもそう伝えました。
 そんな訳でなおさら平日の電子メディア委員会や日本詩人クラブ理事会に出席し難くなりそうです。会社に行ったら最後になりますから、今後は休暇を取るとしかないなと思います。まあ、休暇減しのいい口実になるでしょうね。



佐古祐二氏著詩人 杉山平一論』
sugiyama heiichi ron
2002.10.30 京都府長岡京市 竹林館刊 1800円+税

 正直なところ、杉山平一さんについては遠くから拝顔することは何度かありましたが、作品についての知識は何度か雑誌で拝見している程度で、ほとんど持ち合わせていませんでした。ただ、温厚そうなお人柄ながら内に秘めた強いものがおありなようには、感じ取っていたつもりです。それが今回初めて、まとまった形の「杉山平一論」に接することができました。うれしい限りです。ここでは「第一節 プロローグ」を紹介してみましょう。

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 第一詩集『夜学生』の巻頭に置かれた『機械」という詩をまずみてみよう。

  機械 〔夜学生所収・巻頭〕

  古代の羊飼ひが夜空に散乱する星々を蒐め
  て巨大な星座と伝説を組み立てゝ行つたやう
  に いま分解された百千のねぢ釘と部品が噛
  み合ひ組み合はされ 巨大な機械にまで結晶
  するのを見るとき 僕は僕の苛だち錯乱せる
  感情の片々が一つの希望にまで建築されゆく
  のを感ずる

 この詩は、部分が全体へと組立てられ建築されゆく関係にあることを、「星々−星座と伝説」、「ねぢ釘と部品−磯械」、「感情の片々−希望」という三組の比愉の照応において提示している。理知的であり、かつ、人間的である。その心意気は大きな希望につながり、その言葉は建築のように力強い。このような特徴において、この「機械」という作品は、杉山のその後に展開される詩作品全体のいわばプロローグと言うにふさわしい地位を占めている。

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 これから杉山さんの個々の作品、時代背景、戦争との関り、戦後詩の一時期における不当な扱いなどについて論及していくのですが、それは「杉山平一論」であるとともに戦後詩論でもあると言えましょう。もっと大きく言えば文明論でもあります。杉山さんは映画批評もやっていましたから、そこから導き出される論は、まさに文化論・文明論となっています。
 収録されている杉山詩は70編余、杉山平一という詩人を知るとともに杉山さんの歩いて来た日本史を探る好著であると思います。



山本みち子氏詩集『海ほおずき』
umi hoozuki
2002.11.30 東京都新宿区
土曜美術社出版販売刊  2000円+税

 海ほおずき

ゆうら ゆうらと波間の眠りから醒めそうに
ない海ほおずきは 巾着や長刀の形して盥
(たらい)*
海に浮かんでいる 夜店のおじいさんの掌か
らは潮の匂いばかりが広がって ぬるりと逃
げる宵祭りの賑わい

<夜 ほおずきを鳴らすと きっと鬼が来る>
お祖母さまの声が 眼鏡の奥からきらりと光
るのは少し怖いけれど 布団の中で海老のよ
うに丸まって鳴らす海ほおずきは 海の味

<海鳴りのようにのしかかる家系
(いえ)*こそが余
程鬼なのさ> とうそぶき 夜ごとトランペッ
トを吹いてはお祖母さまを怒らせていた巾の
兄さんの 危うい夢を知っていたのは わた
しだけで

峠をみっつも越えたところの港町 その先に
広がる大海原へ出たがっていた兄さんの部屋
の古びた藤椅子 ぎゅっぎゅっと海ほおずき
と同じ音色で軋むのは もっと怖い

宵祭りの人混み途切れるあたり びっしりと
苔生した石灯龍の陰の夜店で 盥の海に白い
帆船を浮かべている おじいさん 兄さんを
その帆船の船底に隠しているのでしょう

 著者略歴には熊本県生れで、現在は東京都在住とありました。「峠をみっつも越えたところの港町」というのは熊本でのことなのだろうな、と想像して拝見しました。熊本にはまだ行ったことがありませんけど、明るい印象の裏にある「海鳴りのようにのしかかる家系」を思い描きました。ある意味では日本の何処であっても通用する作品なのではないかと思います。
 最終連が見事ですね。「盥の海」の「帆船の船底に隠し」たものは「兄さん」の身であり、精神なのでしょう。位置と空間・時間を自由に操る詩集だとも思いました。
 * パソコン表記の制約で、ルビがうまく打てません。止む無く( )に入れました。原文の美しさを損なう結果となり、お詫びいたします。



詩誌RIVIERE65号
riviere 65
2002.11.15 大阪府堺市
横田英子氏発行  500円

 ひざし/橋口しほ

斜め前の店から戻ると 丁度
学校から帰った息子が玄関の鍵を開けている
ということが幾度かあった
あ と振り向く
肩の高さとかたちが変わっていく歳月

店の前
あたりの掃除をすませた人と話している夢をみた
四方のなんと広々とした空間
そこから鍵を開けようとしている息子が見えた
肩の動きまで見えた

現実にはちっとも見えはしないのだ
看板や塀や植木で
何よりも私の都合が遮っていた
ドアの中にも
夫や世間の都合が縺れ繁り合っていた

それでもこどもは生きる けれど
かがんだ肩の前に ひざしが影をつくっていた

息子が出て行ったあとの
なつかしい肩
かなしい明るさだった

 「肩の高さとかたちが変わっていく歳月」というフレーズで「息子」の成長を想像します。「かがんだ肩の前に ひざしが影をつくっていた」その影は、だんだんと大きくなっていったのでしょうか。最終連は良く効いていると思います。「かなしい明るさ」は、母親としての感傷でしょうね。「息子が出て行った」のは、親との喧嘩別れなんかではなく、成長の結果と受けとめたいですね。「私の都合」「夫や世間の都合」がちょっと気になりますけど、そんな読み方をしてみました。



詩誌『伏流水通信』5号
fukuryusui tsushin 5
2002.11.20 横浜市磯子区
うめだけんさく氏発行  非売品

 ことば/うめだけんさく

ことばはこども
いまいたかとおもうと
もうそこにはいない

--- カクレンボシテイルツモリナノカイ

ことばはとり
みられたのをしると
もうとびたったあとだ

--- オイシイエサハモウナイノカイ

ことばははなび
よぞらにさいたはなは
うたかたのゆめまぼろしもうまっくらやみだ

--- ツギハイツサク

 うまく言葉を言い当てているな、と思いました。言葉は子供・鳥・花火、すぐに消えてしまうものという観察は卓越していると言えるでしょう。それぞれの後のカタカナがまたいいですね。特に最後の、次はいつ咲く? という問いかけには実感があります。
 そんな不安があるから、こうやって紙に書いておいたり、パソコンで記録しておくのでしょうか。記録論にまで広がってしまいそうな、いい詩だと思います。



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