きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.11.20()

 製品輸送用のダンボール箱に汚れがあるということで、代理店からクレームがありました。返品してもらって調べたところ、なるほど輸送時の擦れた跡が数ヶ所見えます。ダンボール箱の中には化粧箱があって、さらにその中に製品がありますから、まったく問題はないと思いましたけど、代理店がそう言うんでは無視もできません。ダンボール箱を供給しているメーカーの担当者に来てもらいました。
 私もメーカー側も、何でこれを問題にするのか理由が判らないということで意見は一致しました。そもそもダンボール箱というのは、そういう輸送中のトラブルを吸収して製品を守る物、いわば犠牲になる物という認識です。そうは言っても代理店の希望ですから、汚れを着けない方法を検討してみました。メーカー側では表面にラミネートをすれば改良できるという案を出してくれました。ちなみにダンボール1箱あたり3〜5円のコストアップになりそうですが…。
 改良案とコストアップを代理店に示すことにしました。コストアップ分は代理店負担にしてもらうつもりです。それを呑むかどうか。まあ、言うだけは言ってみましょう。
 以前の純粋な技術屋と違って、そんなことまで考えなくてはならないことに、正直なところショックを受けています。考えようによっては、そうやってモノの値段が決まったり、代理店との関係が強化されたりするわけですから、おもしろいと言えばおもしろいのかもしれませんが…。これからますますそういうカルチャーショックがあるんだろうなあ。手ぐすね引いて待つぐらいの気持でいようと思っています。



詩誌『杭』39号
kui_39
2002.11.10 埼玉県さいたま市
杭詩文会・廣瀧光氏発行 500円

 ホタルの一生/大畑善夫

ホタルの一生は1年です
人間にたとえると
4日が1年です
人間なら孫や曾孫に囲まれ持病に悩む晩年
初めて恋にめばえます
食を絶ち草の葉の霧酒に酔いながら激しく恋をします
一時のハネムーンが終わると
 …山ゆかば草むす屍…
草葉の下でオスは動かぬ骸となり
メスもまた卵を産んで死にます
 …海ゆかば水浸く屍…
10年間 卵は水辺の草のなかですごし
生まれると水の中に落ちて幼虫になります
ホタルの人生の大半は幼虫です
4回脱皮しながら大きくなります
夏から秋までの20年間
小学校の制服着換え
中学校の制服を着換え
生きにくい冬になると
水の枯れた土の中で30年以上冬眠します
水温む春になると水が引かれた田圃でまた動き始めます
高校生の制服に着換え
大学生の制服に着換え 20年間
鳴きもせず光もせず余りパットしない虫の姿で
過ごします
人生の後半を迎えた頃は初夏です
幼虫は水辺からドロ壁を這い上がります
畦土の中に庵をつくり蛹になって7年間
鳥や天敵に食われた身内や仲間を悲しみ
自分が食った命を悔い瞑想にふけります
それから土の中でひとり蛹になります
蛹になってからも3年間哲学をして
ある夜自分から光る決意をします
月のない夜
光を放ちながら飛び立ちます
それから10日〜2週間の3年間が光るホタルなのです。

 へぇー、そうだったの! と思わず感心してしまいました。たった1年を人間の一生に例えたこの作品は見事ですね。それも「人間なら孫や曾孫に囲まれ持病に悩む晩年/初めて恋にめばえます」というのですから、何やら淋しさも感じます。生物の本質的な哀しさを感じさせてくれる作品だと思います。
 これだけの話なら、例えば昆虫図鑑などではもっと的確な説明をしているかもしれません。でも、こういう形で描けるのは、やはり詩の力だろうと思います。そういう意味でも貴重な作品だと思いました。



詩とエッセー『ATORI』51号
atori_51
2002.11.15 栃木県宇都宮市
ATORI詩社・高橋昭行氏発行  非売品

 忘れ物/井口幻太郎

田舎町の小さなバス停
古い木製の長椅子
嬰児
(こども)の靴が片方 転がっている

黄色のそれを見ていると
若い母親が此処で
日傘を影に乳房を含ませている姿を想う
バスが来て 急いで背負い直した時にでも
落していったのであろう

僕は文庫本を読んでいた
(くさむら)に虫の音がしていた
廻りが騒がしいので眸
(め)をあげると
幼稚園児の群に囲まれていた
何とも無防備な瞳
揃いの帽子を被ったこの天使達は
少女のような保母に連れられて
何処まで行くのだろう

靴を失った子はやがて塗装工になり
そこでシンナーを覚え
錯乱のうちに母親を包丁で刺殺してしまった
これから僕は
頼まれた真新しいスニーカを提げて
その少年院を尋ねるところ
なのだが

 最終連がいいですね。本当の「忘れ物」は何だったのか考えさせられます。「靴」「スニーカ」で統一されていますから地に足が着かない≠アとを喩えているようにも思います。転にあたる第3連もおもしろいですね。「何とも無防備な瞳」、「少女のような保母」などのフレーズは作者の観察眼の確かさを示すものでしょう。これだけでも一編の詩になりそうです。



季刊詩誌『火山彈』60号
kazandan_60
2002.11.10 岩手県盛岡市
「火山彈」の会・内川吉男氏発行 700円

 としごろ考/藤森重紀

あの時だったかもしれない
がき大将の引退式があって
後を継ぐ奴がいなくなり
ぼくの中に
何人もの自分がすみついたのは

中学生になった
だれかを好きになるかもしれない
そう思いこむ自分のせいで
すごく引っ込み思案な少年になった

定収入があればと
母の愚痴を逆手にとって
大学進学を勝手に決めていた

やがて人並みの
就職にのぞみ
結婚適齢期になって
ぼくは賢明な選択をしないまま
多くの自分を切り捨てていたのだ

それでも
三十代のおわりまで
ぼくの中にすみついた自分が
あっちこっちぼくを引きずり回した
けれど
けっしてヘたばりはしなかった

自意識過剰で
にぎやかで
わいわいとあふれかえっているうちは
中年という年ごろも
まんざらではなかった

気がつくと
ぼくの中の自分がずいぶん滅って
わけても夢想家ほど早々と姿を消したのは
五十を過ぎてのことだ

あんなにいた分身が所在不明となって
去ってしまった自分を
こじんまりいとおしむなんて
自己嫌悪のかたまりとなって
想いかえすむかしだけにこだわっている

そうしてぼくは
そう遠くないうちに
たった独りの自分にふと気づくのだ
ぼくはぼくをみつめてきたすべての自分と
ひとりずつ向き合う機会を再度あたえられる

ついに最後のひとりとなった時
かれの説得には
けっしてさからうことはできない
さからうことはおろか
そのときぼくは
等身大の自分をたしかめるまもなく
不意に息をひきとるのだろう

 あぁ、そうだったな、と思いました。作者と私は年齢が近いこともあって、このニュアンスが良く理解できるつもりでいます。「結婚適齢期」「三十代のおわりまで」「五十を過ぎて」などは、悲しいかな、まさにその通りだったなと思います。この感覚は年代に関係なく、どの世代でも同じなのかもしれません。「不意に息をひきとる」まで続くのでしょう。人生の本質を突いた作品と言えると思いました。



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