きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科 |
2002.11.23(土)
職場の親睦運動会がありました。毎年あるのですが、私が参加するのは何年ぶかなぁ? 5〜6年は参加していないかもしれません。いつもなら、パス!で逃げるのですが、今年は職場異動したばっかりですからね、ついつい手を挙げてしまいました。新しい職場で、世話になっている人も増えたし、直接の部下の女性たちも参加する予定になっていましたから、これは出ないわけに行かないなと思った次第です(でも結局、部下の女性たちは来ませんでした^_^;)。
子供たちの輪投げ |
ちょっと写真が大きくてごめんなさい、47KBあります。子連れの家族も多くて、和気藹々とした雰囲気でした。雨になりましたので体育館での運動会でしたが、いつの間にかあちこちの壁にパネルヒーターが入っていてポカポカでした。これなら子供たちも安心して遊べるというものです。
人が足りないからと年代別リレーに狩り出されてしまいました。それも40代がいないというので、1ランク若い部類に入れさせられました。短距離は不得意なのに…。でも、50代から2位でバトンを受けて、そのまま2位で30代に渡せたから、まあまあでしょうね。さすがに抜くことは出来ずに、抜かれないだけで精一杯でした。久しぶりにあちこちの筋肉を使った感じです。
○山本律子氏詩集『白い夜』 |
2002.11.30 東京都新宿区 土曜美術社出版販売刊 1800円+税 |
わたしのかたち
私は正多面体である
おそらく正四面体
一つの面から他の
一面をうかがうことのできない形
バランスが取れているので
いつも正面から向き合う
一つの面だけしか見えない
だが多面体である
著者の第一詩集です。帯には「現実逃避というより、非現実を日常とする著者のさわやかで血みどろの第一詩集」とありました。どなたが書いた帯か判りませんが、詩集の特徴をよく捉えていると思います。紹介した作品は「現実逃避」とは違って、きちんと自分を観察していると思います。「私」に限らず人間すべてにあてはまる作品と言えましょう。
この他に「鎖」「感情のホルマリン漬」などにも惹かれましたけど、表紙の写真を含めて挿入されている14葉の写真にも惹かれました。3度もギャラリーでの展示をやっているようですし、あとがきにあたる「さくひんのこと」では「人に見せるという意識は写真のほうが強く、写真展をやっているときに言葉も出してみた」とあります。詩と写真と、ふたつの芸術分野で活躍が期待できそうです。新しい詩人の出現を祝いたいと思います。
○山中陽子氏詩集『あだ花と小さな希望』 |
2002.11.24 東京都千代田区 砂子屋書房刊 3000円+税 |
ペンキ汚れごみ
ほんの少しだけ残りのぺンキをください!
差し出された器が大きすぎたので
遠慮するなとばかりたくさん詰めて返された。
家を一度塗装してもらうたびに、何も言わなくても
ジャム容器やコーヒーの空き缶に詰まったペンキが置いていかれて、
そのたび微妙に調合の色合いがちがった。
全部で二十本くらいになって家に入りきらないペンキは
レジ袋に包まれテラスで雨風に曝され、その後は増えなかった。
やがて袋が風と太陽にすり切れ
そしてついに中のぺンキはテラス中に広げられだ新聞紙上で乾かされ
「ぺンキ汚れごみ」と貼り紙がつけられ、
燃えるごみの収集日に出された。
重かった。
副題に「二十一世紀の日本人へ」とある、不思議な詩集です。気をつけて読まないと主客の逆転に惑わされます。例えば、紹介した作品に則ると、第1連は作中主人公の言葉になっています。第2連も作中主人公が主ですが微妙にズレます。本来なら差し出した器が大きすぎたので≠ナあるべきところが「差し出された」となっいるから主はペンキ屋です。で、第2連第2行では「たくさん詰めて返された」のだから主は作中主人公に戻ります。
そんなところを注意して読まないと的を外すかもしれませんね。でも、描かれている世界はおもしろいですよ。紹介した作品のような世界は、ほとんど誰も書いてこなかったのではないかと思います。特に最後の「重かった。」がいいですね。この一言で著者のお人柄まで判るような気がします。
他に「わけもなく」「表札」「午前三時のFAX」などにも惹かれましたが、なかなか一筋縄ではいかない詩集だと思いました。
○河井洋氏詩集『日本との和解』 |
2002.12.1 大阪市北区 編集工房ノア刊 1500円+税 |
さばの煮付け
今日、一日、二回もさばの煮付けを食べていた。
青魚が体によいからとか言う知識のせいではない、
五十八歳の身体の単なる好みの変化なのだと思う。
父は私の今の歳に死んだ。
とってもさばの煮付けが好きな人だった。
いや、もっと他に、好きなものがあったかもしれないが、
職工の給金で、家族八人を養う内でえられる一番美味なものが
さばの煮付けだった、と言うことなのだろう。
終身雇用などと言う言葉がまだ無く、
月給取りが社員様と呼ばれていた時代、
日給の職工とか、請取り給の職人の家庭では
父とは、さばのハラミを食べる人の別称だった。
たいがいの父と名のつく人はどこの家でもそうだった。
一番おいしいと、世間様が言うところを父が食べる。
そして、末っ子は尻尾の方の骨のついていない片身ときまっていた。
父の好みの
ほんとのことは判らない。
あれは「父の好み」と言う大人たちの共通の幻想。
あるいは、父と言う名を持つ故の、家族への遠慮。
世間様に反する好みなど口にだすことは
とってもはしたないことだったのです。
私は と言えば、
自分の稼ぎでくらしだしてから、ほとんど食べたことの無い
さばの煮付けが一昨年から好みの一品に変わったけれど
いぜんとして、
さばの煮付けは尻尾の方の骨の無い片身ときめている。
「日本との和解」というすごいタイトルでしたので、ちょっと身構えましたけど、そういう詩はありません。ただ「三章 日本との和解」という章があり、そこに7編の詩が収められています。紹介した作品はその中の一編です。この章の作品を読むと「日本との和解」という意味がよく理解できますね。作品にもありますように、「五十八歳」になってようやく日本を許せる、そう取ってよいと思います。
著者と私は年代も近いせいか、描かれている世界が理解できます。高度成長期直前の日本の一般的な「職工」の家族の姿を思い出します。私の家ともダブるところが多くありました。
他に「不帰は鏡の前に立つ妻の背中で」「渚にて」「十四歳」「N氏への手紙」「アサヒを黙って飲む」などもいい作品だと思いました。私にとっては安心して入って行ける詩集です。
○高田昭子氏詩集『砂嵐』 |
2002.10.20 東京都杉並区
皓星社刊 1800円+税 |
砂嵐
すこやかな寝息をたてているあなたの
裸の胸の太いあばら骨をなぞっている
「これはニンゲンの男の胸骨だ」と
千年後の考古学者が言い当てるのだろうか
この奥に
わたしの言葉に傷ついた場所がある
癒えたのだろうか?
わたしの手が触れることのできないところ
そしてそれは残らない
首 顎 頬 頭……ここも残る
耳……ここは残らない
わたしのさまざまな声を聴いたところ
その隣に横たわり
あなたと並ぶ
素足をからませてみる
この足も残る
そして
わたしの小さな脳髄をのせた
そのあたたかな腕も
ふたりの上に砂嵐が
いくにちも いくにちも 吹いて
わたしたちが
そこに眠りながら
次第に埋もれてゆく風景を思う
「その隣のものは全体的に小さく細い
多分 女のものだろう……」
眠るあなたのそばで
わたしは祈りの姿勢で横たわる
このひとときに
千年の時よ
わたしたちの上に降り続けよ
詩集のタイトルポエムです。男と女の愛の形が美しく語られる中に、有形の人間を冷静に見詰める眼を感じます。それは女性独特のものなのか、著者の個性なのか…。少なくとも男は「千年後の考古学者」のことなど考えていないのではないかと思います。残るところ、残らないところを分けるという着想もすごいですね。
詩集全体としては愛と肉親を語りながら、人間の生死を見詰める作品が主体と思います。「春の暦」「古井戸」「冬の火事」なども惹かれる作品です。あとがきに、著者が発行していた個人詩誌を当分休刊とする旨が述べられていました。残念なことです。
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