きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2002.11.24()

 シャンソン歌手・金丸麻子さんのライブに行ってきました。ここのところ「巴里に憧れて」というシリーズでライブを開いていますが、今回はそのPart3。渋谷のライブスポット「ESCADA(エスカーダ)」という店です。「仏蘭西的PIANO CAFEの愉しみ方」という副題が付けられていて、21曲を楽しみました。

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金丸麻子熱唱!

 私の好きな曲で「王様の牢屋」というのがあります。毎回この歌は入っていまして、今回も期待は裏切られませんでした。聴くたびにうまくなっているような気がします。
 つくづく思うのは、こういう時間が必要だな、ということです。いつもバタバタを日を送っていますから、本当に至福の時間です。リフレッシュして帰ってきました。



個人誌『むくげ通信』13号
mukuge_tsushin_13
2002.12.1 千葉県香取郡大栄町
飯嶋武太郎氏発行  非売品

 告白/具 常(クォ サン)

ある詩人は天を仰ぎ
一点の恥じなきことを と詠んだが
私は心に思えども えげつなくて
天を仰いで恥しく それどころか
むしろ恐ろしい

一つひとつを明らかにすることは
心苦しくて
曖昧模糊に話すならば
私の心は良心の泉が
詰まり曇って汚れてしまい
まるで七罪の下水になっている

しかし 頭がなお且つずる賢くて
さまざまな仮面と台詞を変えてゆき
しかも 詩人らしく世間を渡り
天然そのものの美を口にする

そんな人なのだ! おれは
朝夕いいかげんに析祷文を唱えて
一周毎の教会の礼拝にも通わず
時には信仰の文も書き話もするとは
昔のユダヤのパリセと何が違うのか

もっとも 時々そのぬかるみの中でも
泥水と粘土をきれいに汲み取り
本来の澄んだ泉を湧かせたいが
嘘で絡みあった処世の
現実的な破綻と破滅がこわくて
息絶える前には意欲を出したくなくて
ついにその死が浮かんだなら尚更
その来世が不安で怖ろしい

今夜もTVであの詩句に出会っては
収拾することのない暗澹の中に漬かり
ふと壁にかかった十字架像を眺めては
その横にぶら下がった右盗のような忠節
主よ!
私をこの凶悪から救いたまえ

しかし この懺悔が改心につながるかを
私自身が信じられないから
これをどうしたらよいか?
  詩集「人類の盲点にて」より

 注 七罪=カトリックでは罪の根源を驕慢、けち、淫乱憤怒、貪欲、嫉妬、怠慢の七つを云う。
   パリセ=昔のユダヤ教の一宗派で支配階級が君臨し偽善的であったこと。
   右盗=十字架の上のイエスの右側にぶら下がった盗賊で、悔い改めキリストに救いを約束された。

 詩らしきものを書いている身としては、非常に耳に痛い作品です。特に「まるで七罪の下水になっている」というフレーズは痛烈です。何ひとつとして解放されている罪はありません。そして、最終連の「しかし この懺悔が改心につながるかを/私自身が信じられないから/これをどうしたらよいか?」というフレーズには、止めを刺された気さえします。
 まあ、そう言う作者の言葉を肝に命じて精進せよ、ということだろうと解釈しています。
 今号では拙HPの紹介もしてもらっていました。韓国からもこのHPを訪問していただいているそうで、大変ありがたく思っています。開設者冥利に尽きます。



詩と評論誌『日本未来派』206号
nihon miraiha 206
2002.11.15 東京都練馬区 西岡光秋氏発行 800円+税

 天子様/鈴木敏幸

京の人は
天子様を
明治になって
烏の鳴く東の国へ
しばしお貸ししていると考える
――貸したものは返してもらわねば……
りたり貸されたり
入れたり出したり
考えても致し方もないことではあるが
東人
(あずまびと)
うちは質屋ではありませんなどともしている

 この話はよく聞きます。近いところでは箱根山の向うは未開地≠ネんて言われたこともあります。確かに京の歴史は数千年で、東京はたかだか100年。京の人達の自負心が判らないわけではありません。しかし「東人は/うちは質屋ではありませんなどともしている」というのが実感でしょうね。私もそんなふうに感じています。
 それにしても、日本人に与える「天子様」の影響というものはすごいと思います。明治以降の教育もあるのでしょうが、400年ほどの武士の時代は別としても、1000年以上の影響があるわけですから、日本を考える上では無視できないのは間違いありません。そんなことを真剣に考えてきませんでしたが、この作品を読んで、歴史としてきちんと考えなくてはならんなという気になっています。



高安義郎氏詩集『母の庭』
haha no niwa
2002.11.24 東京都中央区 ごま書房刊
1143円+税

 曇天の祈り

部屋に近づくと
呪文にも似た声が聞こえてきました
開け放たれているドアから顔を突き出し
部屋の中を伺いました
ベットに座り壁を見つめ
しきりに何やら唱えている老婆
それは体の萎えて縮んだ
手ばかりが異様に大きい
僕の母の祈りの姿でありました

「ミツコ ヨシオ ミツコ ヨシオ」
母は僕と妻の名を繰り返し唱えていたのです
「ほら ヨシオの到着」
幼子をあやすように声をかけました
母は僕の顔に半ば驚き半ば安堵し
「ああ、これで間に合った」
どんな夢と連結したのでしょう
穏やかな顔に戻って嬉しそうに言いました

「僕とミツコを呼んでたの?」
何気なしに聞きました
すると母は
「何もかも忘れちゃいそうだから
二人だけは忘れないように呼んでたの」
それを聞くと僕の喉は熱くなり
何の返事も出来ませんでした

ほとんど壊れてしまった脳の片隅で
母は自我崩壊に気付いたのでしょうか
必死に息子と嫁の名を呼び
自分を支えようとしたのでしょう
現実が潮解するような底知れない不安と恐怖が
母の心を容赦なく襲ったのだとおもいます

僕は部屋をそっと抜けだし廊下に出ました
突き当たりの非常口近くで窓を開けると
素知らぬ顔の曇天が格子の向こうに垂れていました
灰色の雲の中に僕は父を思い描き
『早く迎えに来てあげて』
思わず曇天に手を合わせ
そんなことを口走っておりました
          平成十四年 九月二十四日

 副題に「−アルツハイマーは嵐となって母を襲い−」とあります。母上の病状が悪化した1年ほどの期間の出来事を収録してありました。正直なところ、どの作品も凄まじいもので、どれを紹介しようか迷いながら読み進めてきました。そして最後に出会ったのが紹介した作品「曇天の祈り」だったのです。ですら、この詩集の本髄はもっと他の作品にあると言えます。しかし、それらは私などが紹介するなどおこがましいほどの内容なのです。
 最後にこの「曇天の祈り」を拝見して、救われた思いをしました。私にはアルツハイマーの肉親を看護した経験がありませんから、心底からの理解は無理だろうと思いますが、この作品は少し近付ける気がしています。人間の脳とは何だろう、人間とはいったい何だろうと考えさせられました。ご一読を薦めます。



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