きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科 |
2002.11.26(火)
日本ペンクラブの「ペンの日」でしたが、はなから出席を諦めていました。ここのところ何度も書いてますけど、平日に仕事サボって行くのは困難になりました。まあ、職場異動をして3ヶ月を過ぎていますから、そろそろ自由になりそうなものだと自分でも思うのですが、なかなかそうはいきません。もう少しがんばらないと駄目ですね。
来年の「ペンの日」は絶対に行くぞ!
○月刊詩誌『柵』192号 |
2002.11.20 大阪府豊能郡能勢町 詩画工房・志賀英夫氏発行 600円 |
桃/名古きよえ
産毛のついた薄い皮をむいて
子供の頬にふれるように 唇をあてる
甘い香りに
胸の渇きが じわっと ゆるむ
口のなかにひろがる 潮のような水分
一個の重みは体内に
無数の花の宴を浮かべながら 入ってゆく
四月 ほのぼのと陽の照るなか
桃林を歩いた
どの枝も奮がいっぱいで
桃の精気がみなぎっていた
「つぶよりの実をつけるために
九十パーセントは摘果するの」
案内者の声がきこえた
計画的にやることも
自然の淘汰も
数知れない花
一個の桃の向こうに もう一人の私もいる
耳を澄まして声を聞き
時には 論議をするが
人には見えない
私はもう一人の私のお陰で生きていると
知っている
桃のシーズンは短い
実だけでなく 枝も剪定されて
春を待つ
また無数に消えてゆくものがある
良い実を得るためには「九十パーセントは摘果する」という驚き。残されたものと消されたものを考えるとき、「私はもう一人の私のお陰で生きている」と感じる作者。一個の桃に寄せる作者の深い洞察に敬服します。作者はそうやっていつも「耳を澄まして声を聞」いてきたのだなと思います。それがなければ奥の深い作品は創れないと、己の日頃を柄にもなく反省してしまいました。
構成上は第1連、第2連がきれいですから、第3連が生きてくるのだと思います。そして最終連で「また無数に消えてゆくものがある」というフレーズで締めくくるところがうまいと思いましたね。日頃のあり方、作品の創り方ともに勉強させられた作品です。
○詩とエッセイ誌『千年樹』12号 |
2002.11.22 長崎県諫早市 岡耕秋氏発行 500円 |
夜風/岡 耕秋
夏が去ってゆく
窓を細くあけ
夜風の通り道を作って
深夜のべッドに入る
庭の喬木の葉擦れ
そこかしこの虫の声
遠くの街の車の音
鉢植えの夜香木
金木犀の香りを
さりげなく運んでくる
眠りが浅くなった私は
傍らのひとの寝息や寝返りを
聞いていることが多くなった
多くの夢を共有していた日が確かにあったのだ
子どもたちが去って行ってがらんどうになった
もうひとつの庭
霞んでいた春の庭
若葉がさっと模様替えする初夏
蝉が占領していた夏
そして秋の夜風
この季節のめぐりは
あといくたびあろうか
夜風はやさしい
烈日に傷んだ庭も
もうひとつの庭も
かすかなゆらぎのなかに包みこんでゆく
「夏の終りに」という総タイトルのもとに4編の詩が収められています。その最後に位置する作品です。第1連、第2連は私の夏のスタイルとも重なり、微笑ましく読み進めてきました。しかし第3連で「子どもたちが去って行ってがらんどうになった/もうひとつの庭」というフレーズを見たとき、これはそんな軽い作品ではないことに気付きました。人生の深い寂しさをうたっているのだと思いました。
「この季節のめぐりは/あといくたびあろうか」というフレーズは重いのですが、最終連で少し安堵しています。「夜風はやさしい」というフレーズで私も救われた思いをしました。伊東静雄の作品にも通じるような佳作だと思います。
○詩と散文誌『多島海』2号 |
2002.11.25 神戸市北区
江口節氏発行 非売品 |
呼び声/江口
節
急に
鳥の声が ふえた
ここは 鳥の居間だね
その人は言った
見上げる
向こうの空が
ひときわ とおい
鳴き交わすたくさんの鳥に
囲まれて
林を歩いていると
ああ そうなのか
先で鳴き あとに続く
鳥の呼び合う声に曳かれたのは
もちろん
わたしが呼ばれたから
ではなかった
まず呼ばれたのは
おそらく
ちいさな秋
そして
気づいた
いつ知れず呼ばれるのを
待っている
ものたち
わたしだけではなかった
――まだ、ですか?
だれに、ともなく
何のために、でもなく
問う、ための問い
このちいさな星いっぱいに
「鳥の呼び合う声に曳かれたのは」まず「ちいさな秋」。次に「呼ばれる」のは「このちいさな星いっぱいに」にあるもの。それは真理かもしれないし、秋の次だから冬かもしれません。あるいは死? でもこれは全体のトーンから違う可能性が高いでしょう。そこは作者は明言していませんから、読者が好きなように受けとめれば良いのだろうと思います。
魅力的な作品なのですが、そこのところがうまく把握できません。把握するのではなく感じ取ればいいのですから、林を歩く時間はないので窓の外を見ています。時折、神社の杜に小鳥が向って、前方には丹沢山系も見えて…。自然そのものをうたっているのかもしれませんね。
○詩誌『展』58号 |
2002.11 東京都杉並区 菊池敏子氏発行 非売品 |
マティーニは…/菊池敏子
ホテルは最上階のショットバーだった
「こういう場所に案内してくれる
カッコイイ男はいなくなった」と言ったら
「案内したくなるいい女もいなくなった」と
言い返された
ジン ベルモット 数滴のビターズ
バーテンは手榴弾の形に似たシェーカーを
マラカスのような音たてて振り
オリーブを添えた三角形の華奢なグラスに
きっちりと注ぎわけた
マテイーニ
キリッと強いクラシックなカクテル
楊枝に刺したオリーブの実を食べながら
彼はマティーニについての怪しげな薀蓄で
わたしを煙に巻いてはよろこんだものだ
その一つにこんなのがあった
「もうこれで――」と断るわたしに
彼はこう言って二杯目をすすめた
――マティーニは乳房のようなもの
一つではものたりない 三っつでは多すぎる----
そして その彼ももういない
マティーニの味と粋なセリフを置き土産に
嘘みたいに逝ってしまったひとを懐しみ
いまもときおりマティーニを飲む
マティーニは……と呟きながら二杯飲む
粋で洒落た作品ですが、最終連の「そして その彼ももういない」というフレーズでグッと引締りましたね。この最終連がなければ、ただの浮ついた詩で終ってしまうのですけど、作者がそんなことをするはずがありません。どんな展開になるのだろうと読み進めて、最終連で、さすがだなと思いました。もちろん最終連はその前のすべての連を生かすためにあるのですが、第1連から第4連までがパーッと頭に浮かんできたほどです。
それにしても、「案内したくなるいい女もいなくなった」なんて台詞を、どこかで使ってみたいものです。
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